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3トンの大釣鐘は、
大阪町民から徳川将軍へ
の感謝の印だったのですね。
大阪は、たしか太閤さん
びいきのはずだったのに、
どうして?
まずは、これ、見てください。
難波橋、天満橋、天神橋の三大橋を描いた江戸時代の錦絵。雄大な朝日のちょうど真下あたり、ちょこんととんがった櫓のようなものが見えますでしょうか?
(ちっちゃいですよ)
位置関係からして、これぞまさしく釣鐘屋敷の鐘楼でしょう。いまと違い、まわりに高層ビルなんぞがありませんから、こんなに遠景でもちゃんと目立っています。

図1)
『浪速百景「三大橋」』歌川国員

さて、この釣鐘。
大阪町民が、徳川様へのお礼の意味で建造したものであることをご存じでしょうか?
えっ、大阪の人って、だいたいが太閤さんびいきで徳川嫌いのはずなのにどうして? そう思われるのが当然なのですが、これにはわけがあります。

図2)
大坂町中時報鐘(大阪市中央区釣鐘町二丁目)

ときは寛永十一年(1634年)。
冬の陣、夏の陣で城と町が焼けて、約20年。
大阪の町はようやく旧来の盛んさを取り戻しておりましたが、まだまだ心情的には、豊臣恋しの気分が濃厚であったと思われます。
さあ、そこへやってきたのが、三代将軍徳川家光。
家光はここで、なんと大阪三郷の地子銀(じしぎん)を免除するという特例を発します。地子銀というのは、住んでいる土地にかかってくる税金です。
当時は「八つ取り」といって、石高の十分の八を納めねばならないという高率の税金でした。これを毎年毎年、半永久的に免除するというのですから、大阪町民の喜ぶまいことか。さすがの大阪町民も、コロッといかれてしまいました。
徳川氏の懐柔策が、まんまと成功したわけですね。
そこで、大阪の人びとはなんとか感謝の意を表さねばならないということで、釣鐘を作って献上し、時を告げる「時報鐘」としたのです。

図3)
大坂町中時報鐘の銘

その後、この釣鐘は数奇な運命をたどります。
江戸時代には4度の火災に遭いました。
明治期には「時の鐘」が廃止されて、釣鐘は近くの長光寺に預けられます。
さらに、石町二丁目に開校した小学校、松屋町筋の府立大阪博物場と転々として、大正 年には新築なった大阪府庁舎の屋上に設置されることに。
しかし、大戦下の金属供出では、あわや溶かされるところであったそうです。さて、現在は…。
ちゃんとあります。健在です。
昭和60年に、釣鐘町の釣鐘屋敷跡の里帰りを果たしました。
これは、地元の熱意に応えて、大阪府が「歴史的経過からみて、釣鐘屋敷跡へ移転することが適切である」と決意したということですが、大阪府もやるときはやるんですな。
これが、現在の釣鐘屋敷です。

図4)
釣鐘屋敷跡

住友生命の好意と賛同を得て、「住友生命 釣鐘倶楽部」敷地内に設置されています。また運営は、地元有志による「大坂町中時報鐘顕彰保存会」により行われています。
このスマートな鐘楼は、時計の針が0時(スタート)を指している形を表しているということ。高さは、宝暦9年に建てられた高楼の高さ9間にちなんで約 mとなっているそうです。(パンフレット「時の鐘」による)
1日に3回、いまも釣鐘はゴーンといい音を響かせています。(さすがに現在はコンピュータ制御ですが)
朝8時、正午、日没に、釣鐘町付近にいけば、この音を聞くことができます。
あの近松の名作「曽根崎心中」の道行きの場面を想い出しますね。

  この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、
  あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、
  夢の夢こそあはれなれ。
  あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、
  残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、
  寂滅為楽と響くなり

七五調の名調子、よろしいでんなぁ。
若いお初と徳兵衛が天神の森で聞いた鐘の音が、300年後の私たちの耳にも響いてくることを思えば、なかなか感慨深いものがあります。
お昼時、昼飯がてら、ちょっと聞きにこられてはいかがでしょうか。
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