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【浪速の橋物語】難波橋
高欄にライオン!なぜ?

難波橋は、とくに大正四(一九一五)年に市電堺筋線を北浜から天神橋六丁目へ延長する際、従来の位置(堺筋の西隣の難波橋筋)から堺筋へ移され、
現在のような立派な姿に架け換えられました。中之島水上公園を飾ることを意図して設計されたため、随所に斬新なデザインが採用されています。


図1)
大正四年に建造された当時の写真。

図2)
現在の難波橋は一九七五年から三年間に及ぶ補修工事で戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯も復元されています。
まず、四隅の親柱の上には、天岡均一作のライオンの石像。向かって左側が口を開く阿形、右側が口を閉じる吽形、神社にある狛犬とは逆の配置です。
高さ三・五メートル、重さ約十八トン。
荒々しい西洋の獅子に、当時、道を行く人はおどろいたそうですが、やがて「ライオン橋」という愛称で呼ばれ親しまれるようになりました。

図3、4)
難波橋のライオン像「あ」「ん」

ライオン像は古代エジプトで大量に作られていますが、それがネパールを経て朝鮮半島から日本へ伝わり狛犬と呼ばれるようになったと言われています。対岸に天満宮があることから神社の門前の守護神である狛犬を配したのではないかと思われます。
江戸時代、難波橋の界隈は、大名の蔵屋敷や商店が軒を連ね、殷賑を極めていたことが、井原西鶴の「日本永代蔵」に読め取れます。当時、難波橋は、船の運航の便宜のため、中央部の桁下を高くする反り橋であったため、周辺の十六橋や遠くの山々まで眺望できました。
さらに堂島川と土佐堀川の間に浮かぶ中之島の剣先が、夕涼み、花見、花火見物、月見、舟遊びと絶好の行楽地でしたから、見物には、橋の高所は最適の場所とされました。初め、島の剣先は難波橋よりずっと下流にあったそうです。現在より川幅が広くあったこともあり、橋は、長さ一〇七間(約二〇七メートル)もの巨大なひとつの木橋でした。剣先は、やがて難波橋の下へ、そして大正年間には、さらに上流にある天神橋まで延ばされました。

明治のはじめの頃の錦絵(「浪花十二景之内 難波橋の風景 貞信画」絵陶板のレリーフは、中之島へ降りる階段の付近にあります)を見ますと、石垣積みで護岸された剣先のまさに突端に、難波橋が架かっていました。川は行き交う船、橋の上は見物衆で混み合っています。

図5、6)
上のレリーフは『浪花十二景之内「難波橋の風景」』長谷川貞信。下のレリーフは、明治初期の写真。一番手前が難波橋。向うに見えるのが天神橋。

難波橋は、もともと一本で構成されていましたが、明治九(一八七六)年に架け換える際、剣先部分で南北に分けられ、北側のみが鉄橋となり、南側はしばらく木橋のまま使用されました。
橋を渡ってみると、市章の澪標(船の航路を案内する杭。国際港・大阪を表します)を掘り込んだ塔があり、重厚さを醸しだしています。市章は、高欄も飾っています。橋のなかほどからバルコニーをもつ石造りの階段がバラ園へと降りています。
ブロンズ製の照明柱もクラシック調の華麗なデザイン。大正初期の粋をこらし、景観面への配慮は行き届き、いまの中之島公園の原型となりました。ライトアップされた中央公会堂を背景とした難波橋は、大阪の建築美の代表と言えるでしょう。
(大西)
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