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八軒家タイムトラベル 安永七年(一七七八年)三月十日
蕪村の謎。
故郷「毛馬」との微妙な関係


なぜ蕪村は「春風馬堤曲」であれほど
懐かしんだ故郷の毛馬を
一度も訪れることなく逝ったのか。

図1)
『浪花百景「毛馬」』森芳雪
毛馬は淀川が中津川と分岐して大きく曲がってゆくところの左岸にある。対岸の長柄とは渡しで結ばれていた。

しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり

ご存じ、蕪村辞世の句です。天明三年(一七八三年)十二月二十五日の未明、京都の自宅で、この句を吟じたあと眠るようにして亡くなりました。享年六十八才。病勢が悪化した際、急遽蕪村の姉二人が呼ばれたと几菫の「夜半翁終焉記草稿」にあります(すぐ臨終の床へ駆けつけたのですから、毛馬からの可能性が高いと思われます)。
蕪村が毛馬を出たのは二十才頃ですから五十年近く経っています。おそらくはこの時がそれ以来の初めての対面だったと推測されます。

 
図2)
佛光寺通烏丸西入る南側にある「与謝蕪村宅跡」の碑

なぜでしょう。享保二十年に江戸へ下って俳句修業を積み、寛延三年(一七五〇年)からは京都に居を構えていますが、故郷を出てから以降亡くなるまで毛馬を訪れた形跡がありません。姉たち親族がいたのですからこれは少し気になるところです。

蕪村が弟子に宛てた手紙で「自分の故郷は毛馬だ。幼いころ、毛馬の堤で遊んだものだ」と記していますから、毛馬が生誕の地であることは間違いありません。でもこの手紙のほかには蕪村が近しい人に故郷のことを語った記録はありません。

蕪村は享保元年(一七一六年)、摂州毛馬村生まれ(丹後の与謝村とか摂津天王寺村だという説もあります)。天満橋から川崎、源八の渡しを経て、桜の宮を過ぎて、しばらくいくと毛馬。蕪村のふるさとです。

毛馬は幕府直轄の純農村でしたから蕪村の生家も農家であったことは間違いありません。両親については記録がなくあくまで伝承ですが、母は丹後国与謝郡の人で、名は「げん」。毛馬村の村長である北国屋吉兵衛のもとへ奉公に出たが、主人の手がついて妊娠し、故郷の与謝に帰って子を産んだ。それが蕪村だというものです。
俗説の域を出ないとはされていますが、蕪村が故郷のことを語らないことと合わせて考えると興味深い説ではあります。父となんらの確執があったのかもしれません。

その母と蕪村は十三才の時に死別しています。前述のように弟子への手紙で「毛馬の土手で友達とよく遊んだ」と書いていますからそれまでは蕪村は毛馬で大切に育てられていたはずです。
でも、その後、享保二十年(蕪村二十才)、毛馬を出て江戸へ向かうまでのことはなにも分っていません。ちょうど享保の飢饉(一七三二〜三年)のあった数年後ですから、それも関係あるのかもしれません。
一体、蕪村に、そして毛馬村にどんな事件があったんでしょうか。

図3)
『淀川両岸一覧「下り船の図」』松川半山
淀川が右へ長柄川を分かつところ。ここに、毛馬より長柄村へ渡る「毛馬のわたし」があった。毛馬は、この図の下側(東南方)。

春風馬堤曲が世に出たのは安永六年(一七七七年、蕪村六十二才)。浪速に奉公に出た若い娘が藪入りで浪花橋の奉公先から故郷の毛馬へ帰る道中を俳句や漢詩を交えて詠んだもの。

やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し

と始まります。この堤は「馬堤」ですから毛馬の堤です。では長柄川はどの川をいうのでしょうか。浪花橋(難波橋)から帰ったというのですから、これは今の大川なんでしょう。八軒家あたりも通ったに違いありません。

蕪村の望郷の思いが溢れた作品ですが、故郷への懐かしさを表したのはこれが最初で最後となります。ちょうど娘を嫁がせた時期ですから、そんなことで淋しさをまぎらわすための作品かもしれません。

この年の四月十三日に蕪村は几菫と浪花に下っていますが、すぐに兵庫の布引の滝へ弟子たちと出掛け、十九日には舟で京都へ帰ってしまいます。

翌年(一七七八年)にも蕪村は同じく几菫と浪花に下っています。記録によると三月九日、昼舟で伏見を出発、翌朝に大坂に着いたとあります。下り舟からは毛馬の菜畑がひろがる夕景が見えたに違いありません。
その日は弟子の大江丸の案内で網島へ。網島は近松門左衛門の「心中天網島」でおなじみのところ。現在の川崎橋をちょっと北へ上がったあたり。眼前の大川にはひっきりなしに舟が行き交い、東には信貴山や生駒山の山並みが一望できる景勝地です。

図4)
『浪花百景「あみ嶋風景」』歌川国員
摂津名所図会では「浪花最上の名境なるべし」と絶賛されている。

図5)
『浪花百景「さくらの宮景」』歌川国員
摂津名所図会では「浪花において花見第一の勝地というべし」と記されている。

そのあと蕪村たちは桜の宮へ向かいます。神社境内はもちろん大川の水辺に至るまで桜が植えられ、浪花随一と言われたさくらの名所です。そこで花見をしています。しかし毛馬まで足を伸ばしたという記録はありません。兵庫へ出掛けて二十一日には夜舟で帰宅の途についています。

目と鼻の先のところに故郷が待っているのに、なぜ立ち寄りもしなかったんでしょうか。大阪へは数えるほどしか来ていない。寄るのならこの時だと思われるのに…。これは謎です。

図6)
『淀川両岸一覧「上り船の図」』松川半山
毛馬の岸。土手に描かれているのが春風馬堤曲で出てくる茶店だったのかもしれない。この土手の向こうに蕪村の生家があった。

最後に蕪村という俳号の由来について。一つは隣の天王寺村が蕪(かぶら)の名産地だったから、そこからとったという説。二つ目は、陶淵明の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントス」という文句からだという説。現在では後者がほぼ定説とされているようです。となると蕪村とは「荒れた村」の意になります。望郷の念のあふれた春風馬堤曲を詠んだ蕪村が故郷の村を訪れなかった理由は謎のままです。室生犀星の言うように「ふるさとは遠きにありて思うもの」だったんでしょうか。

一軒の茶見世の柳老にけり 蕪村(春風馬堤曲より)

(平野)

参考資料
「与謝蕪村」(田中善信著 吉川弘文館刊)
「蕪村の手紙」(村松友次著 大修館書店刊)
「与謝蕪村」〈江戸人物讀本〉(谷地快一編 ぺりかん社刊)
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