このページは「八軒家かいわいマガジン」内の記事のテキスト版(画像なし)です。
Flash版(画像付き)ではコンテンツを縦書きでご覧いただけます。
Flash版はこちら


八軒家タイムトラベル 貞享五年(一六八八年)四月十三日~十八日
芭蕉翁、八軒家での憂鬱

図1)
蕪村による芭蕉像

「八軒屋久左衛門方に逗留しているが、狭くておまけにやかましくてしょうがない。仕方なくあちこち見物などに出掛けては過ごしている」。芭蕉は貞享五年(一六八八年)、江戸から「笈の小文」の旅へ出て、和歌の浦、奈良を経て大坂は八軒家に宿を取ります。一週間、久左衛門という宿に逗留しましたが、その際に伊賀の卓袋という弟子への手紙にこんな風に愚痴をこぼしています。

八軒家は水上交通の要。三十石船が行き交い、宿も商人たちでごったがえしていたと思われます。選んだ宿が悪かった。多分、同室に何人もの泊り客が詰め込まれていたんでしょう。ということで、芭蕉の大坂の第一印象はかなり悪かったようです。この宿に四月十三日から十八日まで泊り、翌十九日に須磨・明石へと旅立ちました。

その後、更科紀行やおくのほそ道の旅を終えて、六年後の元禄七年(一六九四年)九月。芭蕉は再び重い腰を上げて大坂へ向かいます。

当時の大坂の俳壇事情は、小西来山派が大きな勢力をもっており、その派のリーダー格が椎本才磨でした。才磨は芭蕉がまだ桃青と名乗っていた頃の先輩格の俳人。大坂では蕉門の俳人はまだまだ数が少なかった。とはいうものの之道という俳人が芭蕉を慕って弟子入りしていました。

一方、近江の膳所には芭蕉も認める若手の弟子、洒落がいました。この野心に溢れた二十代半ばの青年は膳所衆の引き留めるのも聞かず、大坂進出を狙って大坂玉出に居を構えます。

面白くないのが之道です。洒落に弟子を取られたりといった経緯もあり、ついに膳所衆ともはかりあって対抗します。

そんな諍いを納めようと大坂へ芭蕉が向かったわけです。二ヶ月前には二人の子をもうけたつれあいの寿貞尼が亡くなっています。近江の膳所は洒落の件でぎくしゃくしています。大坂では弟子の間での勢力争い。才磨から「こんな悶着一つ解決できないのか」と馬鹿にされそうです。自分の弟子たちを持っていかれる心配もあります。

図2)
『浪花百景「増井浮瀬夜の雪」』中井芳瀧

そんなこんなで芭蕉のストレスは大変なものだったに違いありません。九月八日に大坂へ入り、しばらく洒落の家に滞在し、反目する弟子二人の仲を取り持つために句会を何回か開いています。二十六日には大坂清水茶屋四郎兵衛の晴々亭(浮瀬亭)で洒落、之道も加えて歌仙を巻きました。二十八日には翌日の句会の発句「秋深き隣は何をする人ぞ」を遣わしたあと、激しい下痢で床に臥します。容態がさらに悪化したので、明くる日には、宿泊していた之道亭から花屋仁左衛門の貸座敷(久太郎町御堂前)に病床を移します。

そして病状が回復しないまま十月八日、

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

という病中吟を詠みます。これが辞世となりました。

図3)
「芭蕉翁絵詞伝」
久太郎町の花屋仁左衛門貸座敷に臥す芭蕉とその門人たち

十二日午後四時ごろ永眠。五十一歳の生涯でした。去来、其角、支考、丈草などが同行し、亡骸は夜舟で土佐堀川を通って淀川を上り、翌十三日の朝、伏見から近江膳所木曾塚無名庵へと遺言通り運ばれました。芭蕉の小さな墓が、いまも膳所義仲寺の木曾義仲の大きな墓の隣にあります。
洒落は芭蕉の病中から臨終まで、いずれの席にもいませんでした。一方、之道はずっとそばにいて看病しています。世評では洒落の不実さをなじる声もあります。しかし、どうも之道の策略で洒落に連絡がされなかったというのが真相のようです。芭蕉の臨終まで弟子たちのいがみ合いは続いていたのです。

冒頭の手紙のように芭蕉にとって大坂はどうも苦手な土地柄だったのかもしれませんが、皮肉なことに晩年の芭蕉の名句の数多くが大坂で詠まれています。

此の道や行く人なしに秋の暮
この秋は何で年よる雲に鳥
秋深き隣は何をする人ぞ
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

図4)
芭蕉終焉の地碑は御堂筋の南御堂前の東側緑地帯にあります。

(平野)

参考資料
「芭蕉晩年の苦悩」(金子 晋著 創文社刊)
このページは「八軒家かいわいマガジン」内の記事のテキスト版(画像なし)です。
Flash版(画像付き)ではコンテンツを縦書きでご覧いただけます。
Flash版はこちら