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津の国ものがたり 楼の岸(ろうのきし)

「楼の岸」へ鉄砲隊。
石山本願寺合戦の
火蓋が切られました!

現在の八軒家の近く(北大江公園のあたり)、「楼の岸」と呼ばれる高台に織田信長軍の砦がありました。戦国時代の合戦は、出城や砦や塁を築いて戦うというのが通常でした。信長は畿内平定を目指して阿波、攝津、和泉に勢力を張る三好ご三家、いわゆる三好三人衆に攻撃を仕掛けます。この時も、双方が出城や砦を築いて戦闘を繰り広げていたのです。

図1)
石山合戦関係図(「新修大阪市史第二巻」掲載の図を元に作成)

三好三人衆は地図でご覧の中嶋と天満の森に布陣。淀川河口に近い野田と福島に砦を築きます。一方、三好三人衆の動きを知った信長は元亀元年(一五七〇年)八月二十日に岐阜を立ち京都の本能寺へ。二十六日には天王寺に到着、そこを本陣とします。そして先陣には、三好三人衆が籠もる野田、福島の砦を取り囲むように、天満、川口、渡辺(現在の八軒家あたり)、難波などに陣取りをさせました。
さらに信長から出征要請を受けた足利将軍義昭が九月三日、二万の軍勢と三千挺の鉄砲隊を率いて三好三人衆包囲網に加わります。信長方の軍勢五、六万は将軍と援軍を迎えて大いに士気が盛り上がります。大坂はもともと河内湖と呼ばれる湾が奥まで広がっていた地形ですから、上町台地を除いて、ほとんどが湿地帯です。足もとが悪く、なかなか攻め込みにくい。そこで信長はまず野田及び福島砦周辺の堀江を埋め立てます。敵方の砦に近い楼の岸と川口に砦を築きました。

三好勢の砦もいよいよ陥落かー。
そのとき突然早鐘が鳴り渡る

こうして戦闘の準備が整った頃、信長は天王寺を出て、天満の森に本陣を構えます。楼の岸と川口の砦には大櫓を上げて、そこから野田と福島の敵方の砦へひっきりなしに大鉄砲を打ち込みます。三好三人衆も応戦はするものの三千挺の鉄砲で攻め立てられてはたまりません。勝ち目はないと和議を申し出ます。が、信長はこれを認めません。九月十二日、将軍義昭と信長は海老江に本陣を進めます。野田・福島砦は陥落寸前です。
その夜半、突如石山本願寺の早鐘が鳴り響き渡りました。本願寺の挙兵を告げるこの早鐘は摂津、河内の寺内町(じないまち)や道場へ次々と伝播され、和泉や大和、紀州にまで伝わります。いよいよ一〇年以上にも渡る信長と顕如の石山本願寺合戦の火蓋が切られました。早鐘を聞いた門徒衆が続々と本願寺へ結集。そのなかには雑賀(さいか)の鉄砲衆も見られます。

図2)
石山合戦絵伝(ウィキメディアより)

まず、門徒衆の鉄砲が、石山のすぐ近くの楼の岸砦と川口砦に打ち込まれます。楼の岸砦では信長配下の中川重政らの将兵が三好三人衆の一万三千の軍勢と対戦していました。そこへ突然の本願寺の参戦。形勢は逆転します。不意をつかれた信長軍は予想しない展開に混乱をきわめました。あくる日の十三日には大雨で淀川が逆流し、信長の本陣が水に浸かる中での合戦。敗走する信長軍へ向けて本願寺方の鉄砲が炸裂します。それはもう壮絶な戦いでした。

石山本願寺にこれほど執着した
信長の狙いはなんだったのか?

この本願寺の挙兵の二年前、永禄十一年(一五六八年)九月、足利義昭を擁立して信長は上洛しました。翌月には石山本願寺に対して五千貫の矢銭(軍資金)を課しましたが、その際、本願寺の顕如はただちに矢銭を納めています。しかし、信長が目を付けていたのは、堺の寺内町の場合と同じく、石山本願寺のその広大な寺内町の生産力と水運力です。寺内町を本願寺の支配下から外して、直轄地にする。それが狙いです。風光明媚でかつ水陸の交通の要所であり、築城するにはうってつけの立地でもあります。
信長の狙いに気づいていた顕如は、虎視眈々と信長に反旗を翻す機会を狙っていました。「いま三好三人衆が抵抗している、この時こそ信長を攻める好機だ」と判断したのでしょう。
さらに顕如は、元亀元年六月の姉川の合戦で信長に敗れた朝倉氏(北近江)・浅井氏(越前)との同盟関係を九月十二日の挙兵に先立つ九日に結んでいました。本願寺と連携して信長軍を挟撃する作戦です。朝倉・浅井両軍三万が十六日には坂本に進出、十九日には京都へ向かいます。二十日には山科、醍醐にまで兵を進め、二十一日には伏見と鳥羽にまで侵攻しました。
その報を聞いた信長は本願寺、三好三人衆への攻撃を中止して、急遽京都へ急ぎます。それが二十四日。淀川沿岸の門徒衆と戦いながらの撤退でした。
信長の撤退後、三好三人衆、本願寺はそれぞれ奪われた砦や塁を立て直して再攻撃に備えます。この時、楼の岸の砦も本願寺のものとなっています。そして本願寺は諸国の坊主衆や門徒衆にさらなる援助を要請し、強固な防戦体制を整えていきます。

図3)
織田信長像・部分(ウィキメディアより)

その後、信長と本願寺の間では緊張は続きながらも、大きな衝突もなく、天正元年(一五七三年)十一月には堺の今井宗久の取り次ぎで和議が成立します。しかし、これもあくまで表向きのもの。次の合戦へ向けての時間稼ぎに過ぎませんでした。

毛利氏と手を組んだ顕如。
鉄砲隊も次々と石山へ集結

膠着状態は和議以降も続いていましたが、二年後の天正三年三月、本願寺の門徒衆は淀川と大和川にはさまれた大和田に砦を築きます。尼崎には信長方の荒木村重が布陣しています。一旦は門徒衆に大敗を喫しますが、体勢を立て直した村重が猛反攻して大和田と天満の砦を奪います。一方、信長は河内の若江へ軍を集結して河内や和泉の本願寺派の勢力を潰しにかかります。
こうした信長の動きや本願寺に協力する有力武将が次々と信長に降伏してゆく中、顕如は「籠城止むなし」と見て、兵糧米を送るよう、各地の門徒に指示。戦いに備えます。が、戦さの長期化で門徒衆にも余裕がありません。
そうして九月には信長と二度目の和睦をします。ところが本願寺は石山を中心に五十一の出城を築き、紀州を中心に鉄砲隊などの門徒を集結させて、着々と次の合戦に備えていました。
和睦の年の十一月二十日、顕如は毛利輝元の叔父、吉川元春に淡路島の岩屋への出兵・駐屯を要請。信長が毛利氏から本願寺へ兵糧などを送る水路を断とうとするのを阻止します。毛利氏からの支援が本願寺の籠城には欠かせないものになっていたのです。

図4)
顕如像(情報・デザインミュージアム「戦国博」より)

あくる年、天正四年(一五七七年)、なんとか均衡を保っていた信長と顕如の間に再度鍔競り合いが始まります。信長に京都を追われた足利義昭が毛利氏を味方に付け、本願寺とともに反旗を翻したのです。これを知った信長は四月十四日、「本願寺を討て」との指令を発します。野田近辺に砦を三つ築き、水路を封鎖、守口や天王寺にも砦を築いて本願寺の北、東、南の包囲網が出来上がりました。
本願寺側に残されたのは、西側にある楼の岸と木津、あとは難波の砦からの海路だけとなりました。

「楼岸一番の槍」と称えられた
蜂須賀小六の獅子奮迅

五月三日、信長軍は海路へ通じる木津川口を奪おうと兵を進めます。これに気づいた本願寺勢は楼の岸などから一万数千の門徒衆が数千挺の鉄砲での猛攻撃を仕掛けます。さらに本願寺勢は天王寺の明智光秀や筒井順慶らの信長軍を攻め、完全に孤立させます。
これを知った信長は自ら三千の兵を率いて住吉口から天王寺へ向かいます。七日の夜には本願寺勢の鉄砲攻撃を受けながらも天王寺に迫ります。信長も足を撃たれますが、天王寺城から打って出た明智光秀らと共に本願寺勢力を石山の大坂城の木戸口まで攻め立てます。この戦いで本願寺勢一万人が殺されました。でも、城へは攻め込まず、ここで信長は兵を引きます。難攻不落の城へ攻め込むのは不利との判断と本願寺の寺内町を戦火に合わさずに掌中にしたいという思いからだったと思われます。

この戦いで武勲を挙げたのが蜂須賀小六です。楼の岸の本願寺勢の首を一番沢山とったということで「楼岸一番の槍」とたたえられ、信長から褒美にとその陣羽織を賜ったといいます(※)。一方、本願寺側の鉄砲衆の大将、雑賀孫市はこの戦で討死にしています(これは虚報で、実は生き延びたという説もあります。)
※「八軒家南斎 その日その日らく描き絵巻」にもこの話が掲載されています。

図5)
鈴木孫市郎良固(松川半山画。「絵本石山軍記」より)

さて、ここからは本願寺と信長の根くらべです。信長は、天王寺のほか尼崎、吹田、能勢、大和田、茨木、高槻など、石山本願寺を遠巻きにするように十ヶ所に砦を築きます。一方、本願寺側も鴫野、野江、楼の岸、木津、難波など五十一ヶ所に出城を構えます。以後は睨み合い。天正八年七月まで四年間、本願寺は籠城を余儀なくされます。籠城及び寺内町警備の門徒衆たちはざっと四万人。なかでも主戦力となっていたのは船による機動力もあり、鉄砲も使える雑賀衆でした。

毛利水軍の圧勝に終わった
木津川沖の海戦

兵糧や武器の搬入は水路を使って行われました。それだけに渡辺津の周辺、坐摩神社から大江岸あたり、木津砦などは特に防備を固められています。一方信長方は安宅船と呼ばれた大型の軍艦十艘と関船という快速を誇る軍船三百艘を配して木津川口で海上封鎖しています。
そんな膠着状況の続く天正四年七月、顕如の要請を受けて毛利輝元が六百艘余の兵糧船と軍船三百艘を差し向けます。毛利水軍と村上水軍、和泉の雑賀(さいか)衆の混成部隊です。同月十三日から翌朝に掛けて木津川口で激しい海戦が繰り広げられました。井楼(せいろう)を構えた信長軍の安宅船からは鉄砲や大筒が射られ、毛利の軍船からは焙烙(ほうろく)火矢がつぎつぎと安宅船に投げ入られます(焙烙火矢=丸い容器に火薬を詰めたもの。これに火をつけて投げ込み爆発させる)。結果は毛利軍の圧勝でした。信長方の安宅船は全焼、数百名の将兵が討ち取られましたが、毛利軍の負傷者はわずか数名だったと言われています。
こうして毛利水軍は石山本願寺への兵糧の搬入に成功します。兵糧は充分、かつ毛利軍や雑賀衆の支援体制も磐石なものとなりました。その後も顕如側と信長の間では河内や紀州でなおも鍔ぜり合いが続きますが、石山本願寺への海路輸送は確保されていました。

信長の次の一手は
九鬼嘉隆の「鉄の船」

信長も手をこまねいていたわけではありません。大敗を喫した木津川口海戦から二年、信長は伊勢の九鬼嘉隆に命じて大型の軍船六艘の建造をすすめていました。この軍船には大砲三門が備えられ、火矢や弾丸をはね返す鉄板の装甲が施されていました。長さ十八間(三十二㍍)、幅六(十一㍍)の巨大船。この「鉄の船」六艘に大型軍船一艘を加えた船団で信長は再度木津川口を奪回。海上を封鎖します。これが天正六年七月。
その後、荒木村重が本願寺側に寝返って信長は足元を掬われます。朝廷による斡旋もあり、信長と顕如の間で和睦の動きが出てきました。そんな状況の中、同年十一月六日、再び毛利水軍六百艘が木津川沖に出現、兵糧を本願寺に搬入しようとします。
 これを迎え撃ったのが前述の九鬼嘉隆率いる巨大な鉄船です。毛利軍の火矢をもろともせず、近寄せるだけ近寄せておいて大砲を放ちます。さすがの毛利水軍もこれにはたまらず敗走、信長の鉄の船の大勝利に終わります。この勝利で自信を得た信長は和睦策を撤回。以降、本願寺は海上からの輸送路を絶たれてしまうことになります。

図6)
九鬼大隅守船柵之図(ウィキメディアより)

海路を絶たれ、毛利からの支援も途絶えた石山本願寺は窮地に立たされます。信長は天生八年三月、大坂退城など七ヵ条の条件を示して和議を迫ります。顕如はもはや退城は避けられないと和議に応じます。ところが顕如の長子、教如(当時二十三才)は籠城の雑賀衆らと徹底抗戦を訴えます。和睦派と抗戦派の二手に分かれ、両者とも後へは引きません。そんななか顕如は教如の説得に努めますが、話し合いは決裂、顕如は抗戦派を残して、四月九日に紀州雑賀の鷺森(さぎのもり)へ移るということになります(この対立が後年、本願寺が東と西に分かれる要因となりました)。
その後、教如らの籠城組との攻防はなおも続きますが、七月に入って信長から寺内町衆の命と居住の保証が得られたことで教如と信長の間で和議が成立。八月二日、いよいよ教如の退去の日を迎えます。雑賀や淡路島からの迎え船へ砦に籠もっていた門衆達が乗り込み、石山本願寺をあとにしました。教如もひとまず雑賀へ向かいます。

石山本願寺合戦、
そのあっけない幕切れとは…

もちろん本願寺は信長に明け渡されます。ところがなんと教如らの退去後、石山本願寺は火の海となり、数多くの伽藍などすべてが灰燼に帰します。明応五年(一四九六年)、蓮如が築いて以来、八十五年にわたった石山本願寺の歴史の幕がここに閉じられることになります。
この火災は教如が火を放って退去したと言われたりしますが、真相は信長方の松明による失火でありました。石山本願寺をそっくりそのまま接収しようと、講和に持っていった信長は、このことを知って歯軋りし、烈火のごとく怒り狂ったといいます。こうして本願寺と信長の十一年に及んだ石山本願寺戦争は終結しました。
自由な信仰、生活を謳歌してきた中世から武家支配の近世へ―。石山本願寺戦争はその歴史の大きなターニングポイントであったわけです。
(平野)

参考資料
「大阪市史第二巻」
「大阪府史第四巻」
「織田信長石山本願寺合戦全史」(武田鏡村著 ベスト新書)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」(谷口克広著 中公新書)
「信長の天下布武への道」(谷口克広著 吉川弘文館)
「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」(神田千里著 吉川弘文館)
「一向一揆と石山合戦」(神田千里著 吉川弘文館)
「戦国合戦の虚実」(鈴木眞哉著 講談社)
「大阪古地図物語」(原田伴彦ほか著 毎日新聞社)
「蓮如大系第四巻 蓮如と本願寺教団(下)」(梯 實圓ほか監修 法蔵館)
「楼岸夢一定―蜂須賀小六」(佐藤雅美著、実業之日本社)
「雷神の筒」(山本兼一著 集英社文庫)
「蜂須賀小六」(戸部新十郎著 青樹社)
「尻啖え孫市」(司馬遼太郎著 講談社文庫)
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