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新選組八軒家事件簿(2)新選組の大坂血闘記

大坂相撲力士と
北新地で大乱闘

文久三年(一八六三年)六月一日、壬生浪士(のちの新選組)は大阪町奉行から不逞浪士の取り締まりを依頼されます。早速、近藤勇、芹澤鴨、沖田総司ほか十名は八軒家の京屋忠兵衛へ。そして三日の早朝には、二人の不逞浪士の宿所を見つけて踏み込み、浪士二人を難なく捕らえて東町奉行所へ引き渡します。これで一件落着です。

役目を果たして寛いでいた隊士たちは、午後四時ごろ、あまりの暑さに、近藤ほか二名を残して、京屋の小舟で大川へ夕涼みに出掛けます。途中で斎藤一という隊士が腹痛を訴えたので、鍋島岸(現在の裁判所合同庁舎あたり。鍋島藩の藩邸があったことからこう呼ばれる)で舟を下り、北新地の住吉楼で介抱しようと舟から降りて蜆橋へ。ここで事件が起こります。

図1)「北新地樋之橋白雨」(浪花百景之内)長谷川貞信
蜆川で分けられた堂島の北にあるのが曾根崎。宝永五年(一七〇八年)に当地から上福島の間が新地となり、次第に繁栄して曾根崎新地となった。北の新地ともいう。『摂津名所図会大成』には「紅顔雪肌のともがらゆききして楼上には琴曲絲絃の音うるわしく四時ともに賑わし」とある。現在もキタの繁華街として賑わいをみせている(大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」より)。

前方から来た大坂相撲の一行と壬生浪士の間で「道をあけろ」「いやそっちこそ」といった口論が始まり、浪士の一人芹澤鴨が持っていた鉄扇で力士の肩先を打ちつけます。芹澤の鉄扇は一キロほどもある特製のもので、さすがの力士もこれにはまいった。ほうほうの体で逃げ去ります。


さて、住吉楼へ上がって酒宴をひらいている最中、外が騒がしくなりました。なんと八角棒を持った力士数十人が意趣返しにやってきたのです。血気にはやる壬生浪士、しかも酒が入っているとあっては、これはもう大乱闘です。力士たちは十数人の負傷者を出し、退却。花形力士だった熊川熊次郎が翌日死亡しています。

京屋でその顛末を聞いた近藤が芹澤と連名で東町奉行所に届け出た「口上覚」の記録が残っています。

翌日、乱闘の相手が壬生浪士だったと知った力士たちが清酒一樽に金五十両をそえて詫びを入れ、これを快諾した壬生浪士はのちに開催される大坂相撲と京都相撲で警備を担当するなど友好関係を結びます(同年八月七日から始まった京都相撲で新選組が警固にあたっています)。

図2)「摂津名所図会」秋里籬嶌著・竹原春朝斎画
難波新地での勧進相撲の様子。京坂は、江戸時代、町人の豊富な経済力を背景として、いちはやく勧進興行が定着した〈大相撲〉の発祥の地です。そこでは全国から集まった強豪力士による取組が人気を博し、町の風物詩となったほか、力士の姿は浄瑠璃や玩具などにも描かれました(大阪市立図書館「WEBギャラリー」より)。

西町奉行与力を待ち伏せて暗殺!

大坂西町奉行所に内山彦次郎という与力がいました。大塩平八郎の乱の鎮圧などに功績のあった人物でしたが、元治元年(一八六四年)五月二十日、天神橋で何者かに殺害されました。勤めを終え、駕籠で自宅へ向かう途中、天神橋に差し掛かった時、左右から数人の浪士が躍り出て、彦次郎を引きずり出し首をはねたのです。

図3)事件の数年後、明治初年の天神橋(「写真集なにわ今昔」毎日新聞社より)

当時はまだ中之島は難波橋の少し西側までしかなく、天神橋は川幅が広い大川を一本で渡していますから、ご覧の写真のようにかなりの長さがありました(中之島が天神橋まで延長されるのは大正十年)。こんな大橋のたもとで襲われればこれはもう万事休す、逃げ道はありません。

内山彦次郎、享年六十八才。死体の上には「天下の義士此を誅す」という口上書きが残されていました。この口上書には内山以外にも同僚の八田五郎左衛門や、内山の後継者と目された大森隼太らの西町与力の名前も挙げられており、二人はもちろん、他の与力同心も震えあがったといいます。

図4)
「大川天神橋天満橋」(浪華風景之内)三谷貞広
幕末の天神橋を行き交う人々、天満橋たもとの八軒家船着場、数軒の船宿が見える。貞広は風景画の他、役者絵を多く制作、また芝居看板絵も巧みであった(大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」より)。

明治二十二年刊のルポ「新選組始末記」(西村兼文著)によると、この事件は新選組の沖田総司、永倉新八ら四名による犯行と記されていますが、永倉新八の口述をまとめた「新選組顛末記」によれば、近藤勇、土方歳三、永倉新八をはじめ五人で襲ったとあります。

図5)
「戦友姿絵 近藤勇」中島登

図6)
「戦友姿絵 土方歳三」中島登
新選組隊士中島登が箱館降伏後の明治三年頃までの間に描いたとされる近藤勇らの絵姿。土方の添え書きには「生質英才ニシテ飽迄剛直ナリシガ年ノ長ズルニ従イ温和ニシテ人ノ帰スルコト赤子ノ母ヲ慕フガ如シ」とある(京都国立博物館編「特別陳列 新選組ー資料が語る新選組の実像ー図録」より)。

殺害の動機についても諸説あります。一つは新選組が前年、大阪出張をした際に小野川部屋力士らと乱闘騒ぎを起こした「大坂相撲力士事件」で、内山が小野川部屋に協力した疑いがあったことやその吟味が高圧的で近藤との間に確執が起きたための遺恨だというもの。もう一つは、内山が倒幕派志士と結託して米価や油の値を吊り上げていると疑った上での天誅だという説。三つ目は新選組が大坂で強引な金集めをやっているのを、彦次郎が探索しており、このことを近藤たちが知って、証拠隠滅のために暗殺したという説です。

どの説が正しいかはいまとなっては分かりませんが、事件から一ヵ月半後の七月二日に土佐の真覚寺の住職、井上静照が書いた日記に「大坂の与力が灯油などを買い占め、交易していた。それを新選組が探り、その与力を殺した。その結果、鰹節や紙、米、灯油などがにわかに値下がりした。これは江戸にまで及んだ」といったことを書き残しています。

新選組は文久三年(一八六三年)から大坂の与力の身辺調査をしていたふしもあります。新選組は内山の差配による生活必需品買占めによる価格高騰と利潤の独占という事実をつかんでいたのではないでしょうか。どうやら二説目であるような気がします。ただ、土佐の中島作太郎、肥後の結城一郎らの仕業だなどという説もあり、真相はいまだ藪の中です。

図7)
西町奉行所跡(中央区本町橋二丁目 マイドームおおさか前)。幕府直轄地の大坂では、老中支配の大坂町奉行が、警察・司法・行政の任にあたった。町奉行所は地理的位置により東西両奉行所がおかれ一カ月交代で執務した。西町奉行所は享保九年(一七四二年)の大火後当地に移った(それまで現大手前合同庁舎のところに東町奉行所と並んであった)最近現地発掘調査で、その規模が判明しつつある(大阪市「歴史の散歩道」より)。

この事件の二ヵ月後、新選組は一時的ではありますが大坂町奉行の支配下に入り、市中見回りの許可というお墨付きを得ることになります。これがその後の新選組の大坂進出の端緒となりました。

新選組が阻んだ大坂焼き討ち計画

新選組といえば京都の池田屋事件が知られていますが、大坂でも当時、新選組の名を大いに高らしめた事件がありました。俗にぜんざい屋事件あるいは石蔵屋事件と呼ばれるものがそれです。

元治元年(一八六四年)十一月、長州に潜伏していた田中顕助ら土佐の脱藩浪士が大坂へ潜入。大坂城を焼き討ちにして長州過激派の勢力を一気に挽回しようと計画していました(その後、大坂城はなかなかやっかいだということになり、大坂市中の焼き討ちに計画が修正されます)。

事件の発端は密告でした。田中顕助、大利鼎吉ら四人の過激派は松屋町のぜんざい屋、石蔵屋政右衛門をアジトにしていました。石蔵屋を尊皇攘夷派と交流のあった谷川辰蔵という人物がよく訪ねていました。この谷川が、南堀江で剣術道場を開いていた新選組の谷万太郎と旧知の仲。彼がこの大坂焼き討ち計画を谷に密告したのです。

元治二年(一八六五年)一月八日、谷万太郎とその兄、三十郎らが石蔵屋を急襲。当日田中は外出中でしたが、大利鼎吉ほかの土佐脱藩浪士らと一時間以上にわたる壮絶な斬り合いとなります。万太郎は右腕に傷を負いますが、大利を惨殺。残りの浪士はからくも逃亡します。田中顕助らの過激派はこの事件を機に行方をくらましますが、谷らは人相書を作成し、執拗に捜索を続けます。こうして過激派の大坂焼き討ち計画は頓挫しました。

松屋町筋のぜんざい屋のあったあたりに、この事件で死亡した大利鼎吉の顕彰碑が建っています。「ちりよりも
かろき身なれど大君にこころばかりはけふ報ゆるなり」という、大利鼎吉の辞世の句が刻まれています。

図8)
大利鼎吉遭難の地(大阪市中央区瓦屋町一丁目)。鼎吉は天保十三年(一八四二年)生まれ。武市瑞山、通称半平太の土佐勤王党に加わる。新選組に襲われ二十四歳の命を絶った。明治三十一年(一八九八年)、「正五位」を贈られている(大阪市中央区「史跡」より)。

前年の池田屋事件、そしてこのぜんざい屋事件、さらに同年五月に谷兄弟らが、藤井藍田を(長州の志士と交わり倒幕の密議を凝らしたという嫌疑で)惨殺した事件などで新選組は意気軒昂です。長州征伐の動きも急となり、隊士の大坂駐留も始まります。いよいよ新選組はその黄金期を迎えます。
(平野)

参考資料
「新選組のすべて」(新人物往来社編)
「新選組決定録」(伊東成郎著 河出書房新社)
「新選組の舞台裏」(菊地明著 新人物往来社)
「新選組 知れば知るほど」(松浦玲著 実業之日本社)
「歴史のなかの新選組」(宮地正人著 岩波書店)
「幕末 写真の時代」(小沢健志編 筑摩書房)
「特別陳列 新選組ー資料が語る新選組の実像ー図録」(京都国立博物館編)
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