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八軒家タイムトラベル 昭和二十年(一九四五年)三月十三~十四日 
大阪大空襲あの日あの時(1)

東京、名古屋が
大空襲で壊滅。
次は大阪か―。

一九四四年七月七日、サイパン島玉砕。グアム島玉砕が八月十日。十月十日には沖縄の那覇が壊滅しています。マリアナ基地からのB29による本土空襲は一九四四年十一月下旬から始まっていました。

しかし年内は東京や名古屋の航空機工場など軍事施設の爆撃が中心。大阪への空襲もなく、同年十二月七日には東南海大地震で大阪湾沿岸地域を中心に八千軒が被災するということはあったものの、危機感の中でも比較的平穏な日が続いていました。

明日が卒業式という三月十三日深夜、
空をつんざく空襲警報のサイレンが

ところが、一九四五年を迎えると連日のようにB29が
飛来し、爆弾や焼夷弾を投下します。一月三日のB29十機による阿倍野区住宅地ほかへの焼夷弾の投下が大阪市域への初めての空襲でした。
以降は一月、二月にそれぞれ十回の空襲がありましたが、いずれも単機の通常爆弾による夜間爆撃でした。

図1)
雨あられの形容がぴったりの米B29の投弾(毎日新聞社「写真集なにわ今昔」より)。

三月四日にはB29一機が大阪上空から伝単を散布していきました。「工場や軍事施設に近寄るな。爆破するので危険だ」といった内容のビラです(だが実際の爆撃は大阪市街への無差別攻撃でした)。

さらに十日に東京、十二日には名古屋と大空襲がありました。「いよいよ次は大阪か」とは思われていました。そんな矢先の三月十三日の午後十一時、警戒警報が発令されます。

十三日といえば翌日が国民学校の終業式。いよいよ春休みだという時期です。ちょうどその日、南方二四〇〇キロのマリアナ諸島、サイパン・グアムなどの米軍基地では前日の名古屋の爆撃を終えて帰還したB29が急いで整備され、夕刻からの離陸に備えていました。そして、このB29の部隊が大阪を炎熱地獄と化すべく、帰還から七時間後にはつぎつぎと発進していたのです。

来襲したB29はなんと二七四機!
大阪を焼き尽くす焼夷弾攻撃でした

大阪の空をつんざくようなサイレンが三分間鳴り響きます。警鐘も打ち続けられます。そして二十分後には空襲警報。工場やビルの屋上からいっせいにサイレンが四秒ずつ八秒間隔で十回。これに待避信号の激しい警鐘が加わります。

警防団や町会役員らが警報発令を告げてまわり、ラジオも紀伊水道を北上する大群の敵機来襲を伝えます。電燈は数秒感覚で五回以上点滅。こうして大阪は暗黒の街と化し、緊迫感で静まり返りました。住民は防空頭巾をかぶり救急袋を持って防空壕などへの避難を始めます。大きな空襲の洗礼を受けていなかっただけに、この三月十三日深夜の大空襲は大阪市民を混乱の坩堝の中へ放り込んだのです。

この日、空襲警報の出ていた大阪はすべての灯火を消して真っ暗な街となっていました。西方から大阪湾へ進入したB29の一番機の投弾を皮切りに、二七四機のB29がつぎつぎと焼夷弾を投下します。街はたちまちにして業火に包まれ、白昼のように明るく浮かび上がります。大阪は木造家屋が密集し、空き地も少なく、道路も狭い。焼夷弾攻撃を受ければひとたまりもない状態でした。その火と煙は何千メートルも立ち上がります。

そして三時間半にわたって市街地を火の海にしたB29は火焔と黒煙の渦巻くなか、東の空へ消えていきました。その後も大阪市街は燃えさかり、ほぼ二十一平方キロが焦土と化します。

図2)
焼けただれていく堂島の民家(毎日新聞社「写真集なにわ今昔」より)。

B29が大阪の上空でばらまいた焼夷弾は一機当り千数百個にもなります。これが二七四機というのですから想像を絶する大空襲でした(投下された焼夷弾の総量一七七三トン)。日頃の防空訓練や防空態勢も完全に無力。いくら「本土決戦」「一億玉砕」と呼号されても、これではお手上げ、戦意は決定的に喪失します。

大空襲での米軍の作戦は
①焼夷弾攻撃②低空飛行③夜間爆撃

東京、名古屋、大阪と続いた、このB29による大空襲(大空襲とはB29百機以上による爆撃のこと。大阪では終戦までに約五十回空襲を受けたが、三月十三~十四日の第一回を含めて大空襲は計八回)は、それまでの爆撃とは方法を一変させていました。まず住宅地を狙った大量無差別焼夷弾爆撃であったこと。低空飛行(高度一五〇〇~二四〇〇メートル)であり、レーダーの鮮明度もよく、かつ燃料搭載も少なくて済むことから焼夷弾をそれだけ多く積むことができたこと。そしていずれも未明の爆撃であったことです。

低空飛行だと攻撃による損害を受けやすいわけですが、深夜の爆撃で、対空砲火を避けるという作戦でした。日本側の夜間戦闘機の開発の遅れといったところもこの計画の遂行の大きな理由であったようです。そして日本側に低空防衛の備えをするいとまを与えずに十日に東京、十二日に名古屋、そして十三日には大阪と矢継ぎ早に奇襲を行なったのです。

実際、大空襲の際に各所の高射砲陣地から一斉射撃されましたがほとんど無力でした。日本軍の自動火器(高射機関砲)は高度一五〇〇メートル以上ではほとんど効果がなく、逆に高速のB29に対する高射砲(重砲)は高度三〇〇〇メートル以下の低空では命中精度が大幅に低下します。米軍の低空飛行という作戦はこの対空砲火を見事に避けることに成功したのです。

日本軍の空中抗戦は一一五機で行なわれましたが、砲火をB29に命中させることもなかったようです。高射砲での応戦でも一機撃墜したのみでした(南久宝寺町南側に墜落)。

図3)
昭和十七年に撮影された市内対空陣地(毎日新聞社「写真集なにわ今昔」より)。

爆撃対象エリアは、軍事基地よりも
まずは市街中心部の人口密集地だった

B29部隊の爆撃の対象地域は北区の扇町、西区阿波座、港区の市岡元町、浪速区塩草町の四ヵ所が攻撃エリアの中心でした。
東京の場合は山の手、下町とエリアが比較的明快だったので人口の密集した下町へ重点爆撃が行なわれましたが、大阪はそうした区分けがなく、全体的に工場や商店、住宅が混在しています。

そうしたことから爆撃エリアは大阪市の中央部といったことで決められたようです。発進したB29二七四機の半数が北区扇町を照準点として大阪の市街北部を空爆する計画でした(実際にはかなり西南部へずれました)。

市民を大量に殺傷し、市街地を焼き払って日本国民の戦意を徹底的に喪失させる狙いですから、此花区の重工業地区や陸軍造兵廠が最初の攻撃目標からは外されていました。攻撃が容易で焼夷弾が効果的な木造住宅の多い市の中心部が狙われたわけです。

空中で散乱して降り注いでくる
焼夷弾が木造家屋の屋根を貫いて…

ではこの時に使われた焼夷弾はどんなものだったのでしょうか。二種類ありました。先導機が投下したのはM47というタイプ。百ポンド(四十五キロ)の炸裂型の膠化(こうか)ガソリン焼夷弾です。爆発力が大きく、即座に大きな火災を発生させます。この火災によって後続機に目標を示します。
一方、主力部隊が使用したのはM69。六ポンド(二・七キロ)の油脂焼夷弾で、木造家屋が多い日本の都市を攻撃するために米軍が開発したものです(ベトナム戦争で使用されたナパーム弾と基本的に仕組みは同じ)。
これは六角の筒状のもので八センチ径、長さ五十センチ。弾頭に薬室があり、弾尾には尾翼の役割を果たす長い布のリボンがついていました。この焼夷弾が着地と同時に爆発し、筒の中のナパーム剤が飛び散って壁や障子や家具などに付着してそこで燃え上がります。体についたら大変です。

 焼夷弾は四十八発が束ねられて投下され空中で分断します。この際、尾部のリボンに火がついて空中に火の雨が降るように、まるで花火のように見えます。この焼夷弾が屋根を貫いてゴーっという音とともに火を噴く。すさまじいばかりの恐怖の火の豪雨はこうして生じたのです。
 M69のこの束は一機あたり二十八個搭載されていました。B29一機でM69を一三四四発も大阪の空でばらまいたことになります。

花火のようだと見上げた閃光が
地獄の炎となって大阪を焼き尽くす

「十三日二十三時五十分過ぎに空襲警報が鳴り響く中、西南方面で爆音が聞こえた。続いてザァーッと砂利を落としたような音とともに赤みがかった星のような閃光が見える。焼夷弾だ。これがダァーン、ダンダンと赤い尾を細く曳きつつ落下炸裂してゆく」と三月十五日付の朝日新聞がトップ記事で伝えています。

図4)
降りそそぐ火の雨(大阪都市協会「写真で見る大阪市100年」より)

西の空がまるで花火を打ち上げたようになり、火の玉が降り注ぎます。空は真昼のような明るさです。ザーっと焼夷弾が降ってきます。バケツリレーや火叩き、砂袋で消せるような火災ではありません。想像を絶する大空襲の前には日頃の防空訓練は完全に無力でした。

逃げ場を失った人が御堂筋に溢れていました。でもなんとあの広い御堂筋の道幅一杯に炎が流れています。文字通り火の海です。火災の影響で台風並みの旋風が起こって火焔を道路へ吹き流していたのです。

あとは逃げ込むといえば地下鉄の駅くらいです。炎から逃れるように階段を駆け下りると電気が点いている。そうです。心斎橋の地下鉄の駅は電気が点いていました。時間は午前三時頃。そんな深夜に地下鉄が動いていたのです。

 避難してきた人はすし詰めの地下鉄でまだ焼けていない梅田方面へ向かいました。梅田へ着いて南を見ると空は煙で真っ黒。そして真っ黒な雨が降ってきたといいます。御堂筋のガスビルから南は一面の焼け野原、はるかに大丸とそごう、その先には高島屋が見えるばかりでした。

図5)
三月一四日 あとかたもなくなった御堂筋(毎日新聞社「写真集なにわ今昔」より)。

羽を燃やしながら飛ぶ鳩
突風に舞うトタン板・・・

道頓堀川へ飛び込む人もいました。まだ三月なかば、寒い季節です。肥料などの雑荷を運ぶ団平船が浮かんでいましたが、木製ですから業火にひとたまりもなく燃えさかっています。赤く焼けたトタン板が何枚も飛んできます。炎を逃れて川へ飛び込んで行方不明になった人がずいぶんいました。

座摩神社は五分ほどで燃え落ち、北御堂の大伽藍も燃え上がりました。中之島の難波橋の下に逃げ込んだ人は鳩が羽を焼かれて燃えながら飛んでいたのを見たといいます。

船場あたりからは中之島を目指して北へ避難した人が多かったようです。市役所と日本銀行のあたりにたどりついてほっとしたという体験談が残っています。火に包まれていない大阪城のある東へ避難した人はほとんどいませんでした。やはり造兵廠があるので危険という判断だったのでしょう。

東区では、東横堀川以西、平野町以南が焼失しました。当時閑静な屋敷町だった十二軒町あたりまで延焼していましたが、火の手はそのあたりまででした。八軒家かいわいは壊滅をのがれることができたようです。周辺では、島町一丁目にあった北大江国民学校(旧東中学校。現在はマンションが建っています)の、当時はまだ少なかった鉄筋コンクリート造の雨天体操場へ避難された方も多く見られました。

死者三九八七人、羅災者は五十万人以上。
大阪市の中心部はほぼ壊滅しました

この大空襲による被害は全焼十三万四七四四戸、半焼一三六三戸、死者三九八七人、重症七六三人、行方不明六七八人。羅災者は五十万人を越えました。大阪城の南西部、市の中心部はほとんど破壊されました。

図6)
空襲後の大阪(ウィキペディアより)。

最も被害の大きかったのは浪速区でほぼ壊滅状態でした。東区(一九八九年、南区と合併して中央区に)も一夜にして半数以上の人が被災し、四割以上が焼けました。(八軒家かいわいの被害は少なかったようですが、記録を調べてもあまり具体的な実態が分かりません。当時をご存知の方がいらっしゃいましたらぜひ編集部までお知らせください)。

十三日から十四日の大阪大空襲のあと、今度は十七日未明に神戸が大量焼夷弾攻撃を受けます。東京に始まって名古屋、大阪、神戸と、日本の四大都市がつぎつぎと壊滅し、日本はいよいよ戦争終局期へと向かっていきます。
(平野)

参考資料
「続東区史第3巻」(大阪市東区史刊行委員会)
「続東区史 別巻」(大阪市東区史刊行委員会)
「大阪市戦災復興誌」(大阪市役所)
「大阪市史第7巻」(大阪市史編纂所)
「日本の歴史第25巻 太平洋戦争」(林 茂著 中央公論社)
「大阪大空襲―大阪が壊滅した日―」(小山仁示著 東方出版)
「大阪砲兵工廠の研究」(三宅宏司著 思文閣出版)
「大阪大空襲」(大阪大空襲の体験を語る会編 大和書房)
「写真集なにわ今昔」(毎日新聞社編)
「写真で見る大阪市100年」(大阪都市協会編)
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