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八軒家タイムトラベル 元禄十六年(一七〇三年)四月七日
近松の曽根崎心中誕生秘話(2)

本格的な世話浄瑠璃の誕生
近松の「曾根崎心中」が
大当たりした理由とは?

こうした世上で騒がれた心中事件や刃傷沙汰などは、歌舞伎で日を置かずに「切狂言」という一幕物に仕立てて上演されるのが常でした。「切狂言」というのは番組の最後に世話物を独立した一幕物として演じられるもの。浄瑠璃の方でもこれに対抗して元禄末期から切浄瑠璃を添える動きが出ていました。

曾根崎の心中事件も早速、道頓堀の竹嶋幸左衛門座はじめ京坂の歌舞伎各座が競って取り上げました。竹嶋座で舞台にかけられたのは事件のわずか八日後の四月十五日。歌舞伎なら脚本もそこそこに、ある程度役者まかせで舞台が作れるという強みがあります。

でも浄瑠璃ではそうはいきません。道頓堀の浄瑠璃の芝居小屋の座元、竹本義太夫はあせります。この頃はどちらかと言うと歌舞伎の方に人気があり、浄瑠璃は下火でした。

竹本座の起死回生の大きな掛け。
それが曾根崎心中だった

竹本座の経営は危機に瀕していました。愛弟子が独立するという気配もあり、義太夫は次の興行に自信を失っていました。そんなときに曾根崎天神の心中事件があったのです。歌舞伎では早速舞台にあげ評判をとっています。

なんとかこの事件を浄瑠璃にしたい。ほかでやっているような際物的な下世話なものでなく「これぞ世話物だ」というような本格的な浄瑠璃に仕上げたい。でも時間がないー。

そこで義太夫が白羽の矢を立てたのが、京都の宇治座で修業していた頃からなじみのあった近松門左衛門です。すぐさま使いを走らせます。近松は当時、浄瑠璃の世界から離れて、元禄歌舞伎の名優、坂田藤十郎のために歌舞伎の筆をとっていました。

図1)
近松門左衛門(狂言作者)
文政三年(一八二〇)刊「正本製四編・昔模様女百合」柳亭種彦作・歌川国貞画に描かれたもの。(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より)

ところが坂田藤十郎はすでに五十代半ばを越して、病気がちでもありました。近松はなにか満たされない思いを抱いていたのかもしれません。役者中心に展開される歌舞伎とは別の世界を模索していました。

そんなところへの義太夫からの誘いです。近松にとっても、これは願ってもないチャンスでした。取るものもとりあえず三十石船で大坂へ向かいます。上演を一刻も早くということで、近松は船中で構想を練ります。八軒家に着くころにはだいたいの筋立ては出来上がっていたに違いありません。

時代物が主流の浄瑠璃で
本格的な世話物で勝負できるか

曽根崎心中が道頓堀の竹本座で上演されたのは翌五月七日。わずか一ヵ月後です。これは浄瑠璃としては異例の早さ。三味線が曲をつけ、太夫や人形遣いが下稽古をし、大道具、小道具、衣装などの舞台準備もしなければなりません。おそらく近松は一週間前後で書き上げたものと思われます。近松五十一才、円熟の名調子です。

もちろんこの作品は最初から成功が約束されていたわけではありません。当時、観客は浄瑠璃では波瀾万丈の時代物の面白さを好んでいました。本格的に心中物を取り上げるのは浄瑠璃では初めての試みであり、竹本座にとっては興行的に大きな賭けでした。

図2)
元祖義太夫事竹本筑後掾
「声曲類纂」斎藤月岑編・長谷川雪堤画に描かれた竹本義太夫の肖像。(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より)

そんな危険にそなえて竹本座では曾根崎心中の舞台のために知恵を絞り、三つの工夫をしています。

ひとつは「観音廻り」の道行を舞台の始めに加えたこと。当時流行していた市中の三十三ヵ所の観音めぐりという風俗をたくみに取り込んだわけです。曾根崎心中のお初人形は、義太夫の語りに乗って、庶民になじみの三十三ヵ所を華やかに巡ります。

「三十三ヵ所観音廻り」というのは、西国三十三ヵ所廻りの大坂版。太融寺から始まって天満、玉造、から谷町筋へ出て四天王寺へ。道頓堀から三津寺、難波神社、そして最後が御霊神社というコースです(ピクニックのように一日で廻ったといいますから江戸時代の人はかなりな健脚でした)。

辰松八郎兵衛の手妻人形。
付け舞台での出遣いが評判に

当代切っての太夫、竹本義太夫の出語りに加えて、辰松八郎兵衛の手妻人形の出遣いが華を添えます(三味線は竹沢権右衛門でした)。
手妻人形とは遣い手が手摺りの下に隠れて操作するからくりとは異なり、人形の体内に細工した仕掛け糸を引いて遣うもの。人形遣いが本舞台の前に張り出した付舞台で全身を出して遣う、いわゆる出遣いのことです。

辰松八郎兵衛はその手妻人形の名手でした(時代を経て人形は三人遣いになりますが、当時はまだ一人遣い)。「観音廻り」の最後の場面で、観音を讃える言葉とともに突如、お初の女形人形が観音の金色に変るところが今回の手妻人形の一つの見せ場でした。

図3)
「辰松八郎兵衛人形手遣図」奥村利信
「上方文化講座 曾根崎心中」大阪市立大学文学研究科編より。

荻生徂徠も絶賛した
お初徳兵衛道行の名調子

一方、近松はこの物語を心中のあった一日に絞って描き、そこへ九平次という敵役を登場させたり、お初が縁の下に隠れている徳兵衛へ足先で心中の決意を促すという名場面「天満屋の場」を加えたりして、この事件を究極の悲恋物語に仕立て上げました。

「此の世のなごり 夜もなごり 死(しに)に行く身をたとふればあだしが原の道の霜 一足(あし)づゞに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ~」と七五調の名調子に乗っての道行のくだりは大評判を呼び、儒学者荻生徂徠も絶賛しました。

図4)
浪華曾根崎図屏風「舟遊び図」 
図中央に曾根崎川(蜆川)が流れ、舟遊びに興じる人々が描かれています。左には『曾根崎心中』お初・徳兵衛の道行きの舞台ともなった梅田橋が架かり、橋の 下には鰻の蒲焼・酒を売る舟も描かれています。曾根崎川南岸の堂島新地は元禄元年(一六八八)に開発され、北岸の曾根崎新地は宝永五年(一七〇八)にできました。いずれも新地振興策として幕府から茶屋などの営業が認められ、茶屋や料亭が軒を連ねる遊所として賑わいました(水都大阪2009開催記念事業・企画展「水都大阪再発見」大阪市より)。

梅田橋を渡った二人は曾根崎の天神の森にたどりつきます。天神の森は人魂の飛ぶ、この世から隔絶された世界。この世からあの世への境界の地でもあります。そんな天神の森で、二人は連理の木に体をしっかり結びつけます。連理の木とは松と棕櫚が根元で一つになったもの。これを連理の契りになぞらえたのです。そして徳兵衛はお初の喉元を脇差で刺し、自らも剃刀を喉に突き立てるのです。「未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」という沈痛なエピローグで曾根崎心中は幕となります。

図5)
曽根崎心中の舞台
この大変有名な「辰松八郎兵衛口上・出遣い図」は、「曽根崎心中」初演時のお初の観音廻りの様子を記したもので、「牟芸古雅志」から転載しました(「上方文化講座 曾根崎心中」上方文化講座編より)。

時代物の平家物語や太平記などや能にも道行の場面が出てきますが、世話浄瑠璃のなかに初めて道行を導入したのが近松でした。それが道行の最高傑作と言われる、この曾根崎心中の道行だったのです。
このあとも近松は「冥土の飛脚」の「道行相合駕籠」「心中天網島」の「名残の橋尽し」、「心中宵庚申」の「青物尽しの道行」など、数々の道行の名作を残しますが、これらは「曾根崎心中」の成功があったからこそ生れたものだと言えるでしょう。

際物的なものは先行していたとはいえ、本格的な世話物浄瑠璃は、近松の「曾根崎心中」をもって嚆矢とされます。通常五段からなる時代物が主要な演目(立浄瑠璃)、その終わりに付録のように演じられるのが切浄瑠璃です。曾根崎心中は、この切浄瑠璃として上演されたのです。
この時の立浄瑠璃は「日本王代記」という神武天皇の東征物語。歴史物でした。そのあとに曾根崎心中が演じられました。

竹本座の十六年間の赤字が
一挙に解消する大当たり

蓋を開けてみると、義太夫たち竹本座の面々の不安は杞憂に終わります。切浄瑠璃だった曾根崎心中が大当たりしたのです。これで十六年間にわたって抱えてきた竹本座の赤字が一挙に解消するほど利益を上げた興行となりました。京都の宇治座でもこの作が早速上演され、こちらも大評判を呼びました。

近松はこの年、五十一才。この世界へ入ってはや三十年近くの歳月が過ぎ去っていました。宝永二年(一七〇五年)、近松は竹本座の座付作者となって京都から大坂へ移り、以後は浄瑠璃作品の執筆に専念することになります。給金は当時としては破格の年間五十両だったといいます。

「元禄の三文豪」として近松と並び称される井原西鶴が没したのは元禄六年(一六九三年)、享年五十二。もう一人の松尾芭蕉はその翌年に大坂で客死しています。享年五十一でした。それから十年後、五十一才となった近松はまだまだ旺盛な制作意欲を持ち、元禄十六年(一七〇三年)のこの曾根崎心中を皮切りに世話物の名作をつぎつぎと生み出してゆくのです。

図6)
近松門左衛門像(尼崎市久々知一丁目・近松公園内)
JR尼崎駅より北へ約2㎞にある広済寺、近松の墓、近松記念館、近松公園周辺を「近松の里」と名づけ、歴史と文化がふれあう魅力あるゾーンとして整備を進めています(尼崎市「近松のまち・あまがさき」より)。

「心中天網島」ほか十一篇もの
心中物の名作を矢継ぎ早に執筆

享保五年(一七二〇年)。この年の十月十四日、大坂の網島大長寺のほとりで情死事件が起こりました。この事件を土台に脚色され、同年十二月六日より竹本座で上演されたのが「心中天網島」です
金という非情な存在、町人社会の倫理、小春とおさんの女同士の義理などをからめた葛藤の中、事件はどんどん破局へと向かっていきます。曾根崎心中以来、薄幸な男女の姿を浄瑠璃に描いてきた六十八才の近松が、彼の世話物浄瑠璃の中での頂点に立つともいえる最高傑作を完成させたのです。

これを含めて、近松は「曾根崎心中」以降に「心中重井筒」「生玉心中」「心中宵庚申」など計十一篇の心中物を残しています(近松の浄瑠璃作品の中で、確実に彼の作品の認められるものは九十四篇。内訳は時代物が七十篇、世話物が二十四篇となっています)。

享保九年(一七二四年)三月二十一日、南堀江から出た火は大坂中に広がり、道頓堀の芝居町も焼失してしまいます。世にいう「妙知焼」です。大坂三郷のほぼ三分の二を焼き尽くす大火でしたが、竹本座では翌四月八日には仮芝居を構えたといいます。竹本座の座元になっていた竹田出雲の財力も背景にあったのでしょう。
この混乱の中、同年十二月二十二日には病気がちだった近松門左衛門が亡くなっています。享年七十二才でした。大坂に移住してからすでに十八年がたっていました。

図7)
近松門左衛門辞世(部分)
もし辞世はと問人あらば/それぞ辞世/去ほどに扨もそのゝちに/残る桜が花しにほはゞ/享保九年中冬上旬/入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士/不俣終焉期 予自記 春秋七十二歳/のこれとはおもふもおろかうづみ火の/けぬまあだなるくち木がきして(広済寺ホームページより)。

ただ出生と同じく彼の死も謎に包まれていて、どこでどのように亡くなったのか全く分かっていません。①大坂寺島の船問屋、尼崎屋吉右衛門方②南堀江の鋳物師、山城屋宗左衛門方③心斎橋通りの書林、風月堂④檀那寺、広済寺などといった説があります。
墓も二つあります。ひとつは尼崎の広済寺、もうひとつは彼の妻の菩提寺である大坂谷町の法妙寺(跡地)です。

図8)図9)
近松の二つの墓碑
近松門左衛門の墓碑は、広済寺と大阪谷町の旧法妙寺跡地(以下たんに法妙寺と記載する)にある。双方とも国定史跡に指定されていて、双方とも似せて作られている(広済寺ホームページより)。

(平野)

参考資料
「日本古典文学大系 近松浄瑠璃集 上下」(岩波書店)
「近松門左衛門」(河竹繁俊著 吉川弘文館)
「近松に親しむ―その時代と人・作品」(松平 進著)
「近松門左衛門 三百五十年」(和泉書院)
「岩波講座 歌舞伎・文楽第八巻 近松の時代」(岩波書店)
「上方文化講座 曽根崎心中」(和泉書院)
「恋の手本 曽根崎心中論」(高野敏夫著 河出書房新社)
「新注絵入 曾根崎心中」(松平 進編 和泉書院)
「上方文化講座 曽根崎心中」(上方文化講座編 和泉書院)
「江戸の色ごと仕置帳」(丹野 顕著 集英社新書)
「別冊太陽 文楽」(平凡社)
「大坂町人論」(宮本又次著 ミネルヴァ書房)
「町人の都大坂物語(商都の風俗と歴史)」(渡邊忠司著 中公新書
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