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八軒家タイムトラベル 元禄十六年(一七〇三年)四月七日
近松の曽根崎心中誕生秘話(3)

元禄の遊郭・芝居小屋事情
元禄時代の二つの悪所、
遊郭と芝居の関係

遊郭や芝居小屋は武士的道義からは悪所と呼ばれましたが、廓と芝居の世界は町人が封建的な制圧下にあって、享楽をほしいままにできた世界でした。

大坂の商取引はこの悪所である廓を不可欠としていました。手合い、手打ちは茶屋酒、手打酒が付き物だったからです。蔵屋敷の役人が掛屋や両替商へ掛け合う際も振舞茶屋によらないでは成り立ちませんでした。こうして悪所は必要かくべからざる悪所となったのです。

図1)
「摂津名所図会 新町九軒町」秋里籬嶌著・竹原春朝斎画
「摂津名所図会」は寛政八年(一七九六)から同十年(一七九八)にかけて刊行された全十一巻からなる名所案内。新町遊郭は「大阪部四の下」に紹介されている。(大阪市立図書館イメージ情報データベースより)

また大坂では遊所と芝居は切っても切れない関係でした。芝居だけでなく一切の芸能が遊郭と結びついていたともいえます。

大坂で人気のあった浄瑠璃の義太夫は、清元のようにさわやかでもなく、謡のように品があるといったものではありませんが、腹のそこから声を絞り出して詠います。情熱的で迫力があります。まさに大坂町人にぴったりの芸能といえるでしょう。

歌舞伎でも、江戸が主として荒事をやっていた時、大坂はすでに和事(優婉な男役)の本場でした。傾城事が江戸時代前期の上方芝居の中心外題であり、濡事ややつしの芸で坂田藤十郎が絶大な人気を集めました。浄瑠璃や歌舞伎が町人社会の芸能として定着していたのです。

両替商や蔵屋敷役人が
曽根崎新地を発展させた

元禄時代には「大坂四花街」と呼ばれる遊郭がありました。一番歴史が古いのが「新町」。東に西横堀川、北に立売堀川(いたちぼりがわ)、南に長堀川と廓の周囲には堀がめぐらされ、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊郭のひとつでした。遊女の数は八百人以上にのぼりました。近松門左衛門には、新町遊郭の夕霧太夫を主人公にした「夕霧阿波鳴渡」という作品があります。

「堀江」は新町の南側にありました。現在の北堀江の北半分が花街。新町より庶民的で、近くに相撲場や浄瑠璃の芝居小屋がありました。三つ目は「南地」。道頓堀の芝居小屋とともに発展していきます。

最後が「北新地」です。曾根崎心中の頃には、堂島新地だけでしたが、その後堂島に米市場が移転。一七〇八年に新たに曾根崎新地が拓かれた際に、遊郭のほとんどが曾根崎に移りました。両替商や米商などの遊興場所として繁栄していきます。近松の「心中天網島」に登場する小春はこの曽根崎新地の遊女でした。

徳兵衛も紙屋治兵衛も通った
新地の相場はいくらだったのか

これらの遊郭で一般庶民がたびたび遊ぶのは可能だったのか。どのくらいの費用が必要だったのかを見ていきましょう。

遊女のトップクラスは太夫。元禄時代の吉原でさえ三、四人しかいなかったといいます。井原西鶴の「色道大鏡」(一六七八年刊)によると京都島原の太夫の揚代は銀五十八匁(ざっと十二万円くらい)。置屋や若い衆、遣り手婆などへの心付や飲食代を含めるとその二倍以上の出費となります。ちょっと庶民には手の届かない世界です。

図2)
「遊女画賛」椙森多門
近松の子息、多門の筆と知れる。賛には「平安堂近松七十一歳」とあり、近松の享保八年(一七二三)の画賛(「近松門左衛門三百五十年」和泉書院より)。

ただ遊女にはさまざまなランクがありました。太夫の次が「天神」(銀三十匁)、「鹿恋(かこい)」(銀十八匁)。島原から大坂新町へ流れて「端女郎」になると三匁取り、二匁取り、一匁取り、五分取りの四ランクありました。最低ランクの五分取りだと約千円。これだと醤油屋の手代徳兵衛でも時々は遊びに行けただろうと思われます(お初も島原から流れてきた遊女でした)。

道頓堀は浄瑠璃や歌舞伎の
芝居小屋が八軒もあった激戦区

元禄時代、道頓堀には芝居小屋が建ち並び、それはもう大変な賑わいでした。戎橋から東へ日本橋の手前までずらりと浄瑠璃と歌舞伎の芝居小屋が計八軒。それぞれが互いに競いあっていました。竹本座は西から二軒目、法善寺の南あたり。競争相手の豊竹座は東から三軒目、相合橋を南に渡ってすぐのところ。その斜め向かいの浜側には、からくり人形の竹田座もありました。

図3)
「道頓堀角芝居」歌川国員
梅津川と呼ばれていた小溝を慶長十九年(一六一四)に安井道頓が拡げたのが道頓堀川のはじまりといわれている。元来大坂城排水のため設けられた東横堀川・西横堀川の南側が堀留となり汚濁が進んだため、慶長十七年(一六一二)豊臣家から新川奉行を命ぜられた道頓により起工された。大坂夏の陣で道頓は戦死するが従弟の安井九兵衛道卜らによって元和元年(一六一五)完成、「南堀」と名づけられる。その後大坂城主松平忠明によって「道頓堀」と改められる。道頓堀川西岸に町立てされた川八丁にはじまり、南岸は承応二年(一六五八)芝居名代五株が公認されてから歌舞伎・義太夫・見世物などが賑わい、宗右衛門町や九郎右衛門町の色町と相まって町人文化の核となった(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

浄瑠璃や歌舞伎の興行では、初日がいよいよ近づくと町々に太鼓を打って芝居が替わることを触れ歩きます(触れ太鼓といいます)。興行は年三、四回行なわれていました。新作が上演される場合は、二、三日休んで初日に備えるのが常だったようです。

興行時間はどれくらいだったのでしょうか。もちろん照明設備のない時代ですから、日が暮れてからは上演できません。朝はかなり早い。辰の刻(午前八時)に始まり、だいたい未か申の刻(午後二時から四時)には終っていたようです。中入りをはさんでざっと六時間程度の観劇となります。

桟敷席はお一人さま二万円。
でも札場(大衆席)は千円程度でした

浄瑠璃芝居の料金はどうなっていたか。最近の歌舞伎や浄瑠璃は庶民がそう度々観れるという金額じゃありません。江戸時代の庶民の懐具合では一体どうだったんでしょうか。

図4)
芝居小屋

屋根の上に乗っているのが櫓。出演者と演題を書いた看板の下、矩形で切り抜いた個所が観客の入り口です。狭い入り口で、みんな跨いで背をかがめて入りました。茶室の「にじり口」のような感じで、「鼠木戸」(ねずみきど=または鼠戸)といいました。人形浄瑠璃小屋も、ほぼ同じ形です(「近松門左衛門と人形浄瑠璃の軌跡」廣田隼夫より)。

芝居の客席には特別席に相当する桟敷と大衆料金の札場の二種ありました。まず札場は時期や太夫とか座の格によって差はありますが、竹本座や豊竹座で札銭が三十四文から四十文。一両(=銀六十匁=銭四貫文)を十二万円とするとざっと千円から千二百円程度。ただこのほかに「半畳」と呼ばれる敷物を借りる料金がかかります(下手な芝居をする役者へ投げつけられたのがこの半畳です。「半畳を入れる」という言葉はここからきています)。これがだいたい六文(百八十円)ほどかかりました。

桟敷席は一人あたり平均十匁五分(ざっと二万円)。これに毛氈代や「提重(さげじゅう)」というお弁当代などの費用もかさみます。

曾根崎心中の大当たりは
赤穂浪士の討ち入りのおかげ?

心中は元禄以前から見られましたが、頻発するきっかけになったのが元禄十六年(一七〇三年)の曾根崎心中でした。

これは一方で、時の施政者にとっては危険な風潮でもありました。遊女と手代の恋が思い通りにかなわなかった。観客はこのなかに大坂の町が根深く蔵している病根を感じ取ります。それは時代が持つ矛盾と限界でした。

元禄十五年(一七〇二年)十二月、赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあり、翌年二月には四十七士が切腹しています。江戸ではこの事件はすぐに謡曲や小唄となり芝居小屋の舞台にかけられますが、すぐに幕府によって禁止されます(討ち入りを取り上げた江戸の芝居はわずか三日で禁止されました)。

同月すぐに幕府は生々しい時事的な事件を直接謡曲や小唄、書物にすることを禁じています。

図5)
「仮名手本忠臣蔵」鳥居清経

明和二年(一七六五)の中村座場内を描いたもの。(早稲田大学演劇博物館より)

しかし大坂でのこととはいえ、その三ヵ月後に上演された曾根崎心中は異例の大当たりを取りましたが、なんのお咎めもなく、長期興行が打てました。当時の幕府は赤穂浪士問題について神経を尖らせており、大坂の心中物の舞台まで気が回らなかったのだと思われます。

ついに享保八年、たまりかねた
吉宗が心中禁止令を…

心中物の読売(瓦版)禁止令が出たのは、それから二十年後の享保七年(一七二二年)。これは元禄十六年の禁止令を再度確認し、時事的な事件として心中を名指しであげて、これを演劇に作りなすことを禁止しています。

その後、享保八年には心中した者の処置に関する令が出されました。上方で多発していた心中ブームが江戸へも飛び火して、これを嫌った吉宗が心中という呼び方も禁じて相対死(あいたいじに)という殺風景な呼び名とし、これを禁じたのです。

処罰も厳しいものでした。心中した者は埋葬が許されず、裸にして晒し場に放置されます。一方が生き残った場合は死刑。二人とも生き残った場合でも晒し場で晒された上、最下層の身分に落とされます。心中は反社会的であり、公序良俗を乱す犯罪であるとされたのです。

大坂網島の大長寺の墓地で紙屋治兵衛と紀伊国屋の遊女小春が心中したのはこの禁止令が出る二年前の享保五年十月。二ヵ月後には近松心中物の集大成ともいえる「心中天網島」が初演されています。禁止令がもう二年早く出されていたら、この世話浄瑠璃の代表作が世に誕生していたかどうかは疑問です。
近松の最後の作品「心中宵庚申」は享保七年四月竹本座で初演されています。心中物の禁止令が出たのはその年の十二月でした。

図6)
「徳川吉宗像」狩野忠信 徳川記念財団蔵。(ウィキペディアより)

曽根崎心中が大当たりを取り、心中がブームのようになったとき、吉宗は二十歳でした。よく城を出て市井に立ち混じって過ごしていた吉宗は、市中で心中をもてはやすのを聞く機会があったのでしょう。国を治める者からすれば、領民が情死するのも、情死を讃えるような風潮も許しがたかった。下情に通じていた吉宗だからこそ、心中を厳罰を持って処することにしたのだと思います。しかし厳罰を持ってしても心中はなくなりませんでした。
(平野)

参考資料
「日本古典文学大系 近松浄瑠璃集 上下」(岩波書店)
「近松門左衛門」(河竹繁俊著 吉川弘文館)
「近松に親しむ―その時代と人・作品」(松平 進著)
「近松門左衛門 三百五十年」(和泉書院)
「岩波講座 歌舞伎・文楽第八巻 近松の時代」(岩波書店)
「上方文化講座 曽根崎心中」(和泉書院)
「恋の手本 曽根崎心中論」(高野敏夫著 河出書房新社)
「新注絵入 曾根崎心中」(松平 進編 和泉書院)
「上方文化講座 曽根崎心中」(上方文化講座編 和泉書院)
「江戸の色ごと仕置帳」(丹野 顕著 集英社新書)
「別冊太陽 文楽」(平凡社)
「大坂町人論」(宮本又次著 ミネルヴァ書房)
「町人の都大坂物語(商都の風俗と歴史)」(渡邊忠司著 中公新書)
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