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八軒家タイムトラベル 明治十六年(一八八三年)四月二十日~

八軒家かいわい桜の名所巡り

大阪の風物詩、造幣局の通り抜け。この通り抜けが始まったのが明治十六年(一八八三年)四月二十日(明治六年から新暦に変わっています)。当時はご覧のように大川に沿った並木道でした。屋形舟などを眺めながらのそぞろ歩き…。明治九年の京都‐大阪間の鉄道の開通で客を奪われたとはいうものの、外輪の蒸気船はもちろん三十石船などの川船で大川は大賑わいです。

では花見の前に当時の八軒家を覗いてみましょう。左の図は明治十七年十二月出版の「浪華名所ひとり案内橋づくし」から。当時の八軒家浜を描いた絵図です。あの大きな柳こそ見当たりませんが、江戸時代とあまり変わっていなかったことが分ります。

図1)
「浪華名所ひとり案内橋づくし」藤井新助・鎌田朝助編
明治十七年(一八八四)十二月十七日に出版された折本で、ほぼ一折に1点の絵図が描かれており、全部で23点の絵図が載る(大阪商業大学商業史博物館より)。

八軒家の石段を上った高台に三橋楼。
大川両岸の桜の眺めは絶景でした

この八軒家から今橋にかけては商店街になっており、旅館や運送店、汽船所、料理店のほか各種商店が軒を連ねていました。写真の通りがそれです。ただしこの写真は市電の八軒家停留所がありますから、明治後期のもの(市電は明治三十六年から四十一年にかけて敷設・開業されました)。この写真ではさびれた印象ですが、明治十六年頃には八軒家は大阪の水上交通の要としてかなり賑わっていたはずです。

図2)
「大阪市電が走った街 今昔」(JTBキャンブックス)より。電柱に「八軒家」の文字が見えます。停留所はお祓い筋あたりにありました。

八軒家浜から南へ。高い石段を登って行くと、そこには塩屋、油屋、炭屋、材木屋などが建ち並び、頂上には三橋楼があります(後年にニコライ堂が建ち、現在はマンションになっています)。この三橋楼は明治八年一月八日に大久保利通、木戸孝充、板垣退助らが史上名高い大阪会議を開いた料亭です。

三橋楼からの眺めは、大阪城の天守閣こそ大阪夏の陣で焼け落ちていましたが、まさに絶景。大川のゆたかな流れが見下ろせ、桜のシーズンには造幣局や木村堤、桜の宮などの桜をたっぷり堪能できたことでしょう。東を見れば生駒山系、はるか西には大阪湾が望めました。

天満橋は江戸情緒の残る木橋。
二年後に洪水で流されてしまいますが…

前置きが長くなりました。では、八軒家かいわい桜の名所巡りを始めましょう。まずは造幣局の桜。ということで天満橋を渡ります。明治十六年の天満橋はご覧のような木橋でした。江戸の時代から「浪華三大橋」と呼ばれた天満橋、天神橋、難波橋でしたが、明治十八年六月十五?十七日の大豪雨で淀川が決壊、いずれも流されてしまいました(この時、淀川筋の三十一の橋が流されたそうです)。天満橋は明治二十一年に鉄橋へ生まれ変わり、いまではその面影も残っていません。架け替えられる前は、ひと筋京橋寄りにありました。

図3)
木橋だった天満橋。明治前期の木造の天満橋。すでに対岸に何本もの工場の煙突がみえ、この地が近代工業の先進地だったことがうかがえる(読売新聞大阪社会部編「おおさかタイムトンネル 浪速写真館」より)。公儀橋の名残として橋柱に六角形の凝宝珠がある。
図4)
明治十八年の大洪水で流された天満橋。向こう岸が天満、右の煙突のあたりが造幣局(「おおさか100年」より)。手前に見える築地は将棊島と呼ばれていました。以降天満橋の南詰のこのあたりは順次埋め立てられます(現在の八軒家浜は昭和初期に埋め立てられたものです)。

天満橋北詰の通用門から源八渡し場まで。
対岸の桜も楽しみながらの通り抜け…

橋を渡れば造幣局はもうすぐです。造幣局が開所した明治四年頃には、その北側、鈴鹿町に伊勢の津藩、藤堂家三十二万石の蔵屋敷がありました。造幣局の桜は、この蔵屋敷が廃止となり、そこにあった桜を移植したのが始まりです。

さらに対岸の桜の宮が桜の名所ということで、その西側の造幣局にも桜が植えられていきます。もともとは寮員の眼を楽しませるためのものでしたが、造幣局長だった遠藤謹助の指示により、明治十六年四月二十日、市民にも期間を限って構内河岸が開放されます。これが「通り抜け」。以降毎年恒例となりました。

当時の新聞記事によると「通り抜け」は午前十時より午後四時まで。道筋は天満橋北詰川崎の通常門より河岸に沿い、源八渡し場の柵門までとなっています。かなりの人出でしたから、その雑踏を逃れて対岸の土手下の堤でゆっくりと花見をする人も多かったようです。堤には屋台店や金魚すくいなども出ていました。

図5)
「浪花川崎造幣寮」(浪花三十六景)後藤芳景
幕末に、日本小判の流出を防ぐために久世治作が行った貨幣鋳造の建議に基づき、五代才助らが長崎のイギリス商人グラバーを通じて、銀貨鋳造機を購入。その機械を据える場所として、水利や交通の便などから選ばれたのが、川崎御蔵の跡地、現在の造幣局であった(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

通り抜けを終えて、次は桜並木の木村堤へ。ここも江戸時代から桜の宮と並んで桜の名所でした(現在のOAP、帝国ホテルあたり)。しばらく行くと源八渡し。元禄時代から渡しが始まり、昭和十一年に源八橋が架けられるまで続きました。

源八をわたりて梅のあるじかな 蕪村

こちら側からは川向こうの中野村の梅園が一望できたといいます。

図6)
『淀川両岸一覧「木村堤 樋之口」』松川半山
江戸時代に描かれた「淀川両岸一覧」は、文・暁晴翁、絵・松川半山によるもので、年号でいえば文久の頃(一八六一?一八六三)に、江戸の山城屋、京都の俵屋、大阪の河内屋を版元として出版された。上り船(上)・上り船(下)・下り船(上)・下り船(下)の四冊からなる、いわば旅行案内記である(淀川資料館「淀川両岸物語 今・昔・明日」展より)。

天満堀川との合流地点が天満樋之口堤。
一面の芝が花見にうってつけです

さてそのままもう少し北へ行くと天満樋之口。天満堀川が東北に延び、それが淀川と合流する地点に水量調節のための樋が設けられていたことから樋之口という町名となったといいます。この堀川にも屋形船などが出ていました。

「なには百景」には「桜の宮の上、樋之口堤は淀川の西岸にして、これより下、木村堤川崎まで桜ならざる処もなし。ことにこの樋之口の堤は幅広く一面の芝があり、遊興に適している。川船の上り下りの風情もよし」とあります。

図7)
「樋の口の春景」(なには百景の内)長谷川貞信
天満堀川が大川に通じた地点を樋の口と呼び、対岸の桜宮とともに桜の名所として知られた。天満堀川と淀川との合流地点に樋が設けられていたことからこう呼ばれる。以前は塵芥が積もり「ごもく山」と呼ばれるほどであったが、天保九年(一八三三)の延伸工事によって水は澄み、好景の地となった(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

大枝垂桜で知られた鶴満寺。
浪花随一といわれた眺望も魅力

樋之口から北西へ少し行ったところにあるのが鶴満寺。ここの名物は境内にある枝垂桜です。忍鎧上人が客寄せのために植えたものだと言われています。これが大当たり。すっかり浪花の名勝地になりました。
枝垂桜越しに大淀のゆるやかな流れが見え、川向いには桜の宮、網島が見渡せます。ここからの眺望は「浪花随一」と評判をとりました(残念ながら、この枝垂桜は明治十八年の洪水で全滅してしまいます)。
上方落語には、この寺の寺男と船場からの花見連中とがからむ「鶴満寺」があります。江戸末期から明治の初めの花見の様子がうかがえて、なかなか興味深い演目です。

図8)
「鶴満寺」(浪花百景の内)長谷川貞信
号は雲松山。近江坂本の西教寺の末寺で天台宗。本尊は慈覚大師の作とされる阿弥陀仏。境内の糸桜が有名で、『浪華の賑ひ』に「花の盛りには幽遠にして騒人・墨客打ちむれて風流に乗ず」とある。明治十八年(一八八五)の洪水で消滅した。また、釣鐘は長州の萩城下周辺から掘り出されたもので毛利氏からの寄附。その銘から中国から伝来したことがわかり、「稀代の梵鐘」として知られた(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

さあ今度は源八の渡しで大川を越えていよいよ桜の宮へ。桜の宮は昔から桜の名所でした。閑雅な、俗塵を離れた小天地で古来、詩人墨客にもてはやされた地でもあります(いまはその風趣もありませんが)。
菜の花の頃には東側一帯の田圃は一面黄金色に染まりました。「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)はこのあたりで詠まれた句だと思われます。

大阪の花見といえばここ、桜の宮。
芸者や太鼓持ちを連れての大尽遊びも

船場あたりの大店の旦那衆などが芸者を連れて、大川に船を浮かべて花見や夕涼みをしていました。寿司を売る舟やしるこやぜんざいを売る舟も出ていたようです。なかには高座では売れない落語家を乗せて落語を売っていた舟もあったとか。

図9)
「さくらの宮景」(浪花百景)歌川国員
祭神は天照皇大神。桜の宮という名は、神社がかつてあった野田付近の大和川堤の字である桜野からきている。洪水による被害を避けて宝暦六年(一七五六)に現在の地に本格的に造営した際に前の地名から桜の宮と名付けられた。社名にあやかって境内のほとりに桜を植え、その後に境内のみならず大川端も一円の桜となり、春の盛りには雪と見間違うほどであったという(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

土手の上には桜の宮神社があります。祭神は天照皇大神。桜の宮という名は、神社がかつてあった野田付近の大和川堤の字である桜野からきています。現在の地に造営された際に前の地名から桜の宮と名付けられました。
その社名にあやかって境内のほとりに桜を植え、その後に境内だけでなく大川端にも桜が植樹されたそうです。春の盛りには雪と見間違うほどであったといいます。

明治以後も風光明媚なこの地は文人や画家が好んで移り住むようになりました。たとえば渡辺霞亭。新小説や歴史小説で人気のあった作家です。霞亭の自宅の二階からの花どきの眺めは格別だったそうです。

日本初の探偵小説「殺人犯」を書いた須藤南翠、悲劇のメロドラマ「己が罪」が話題を呼んだ菊池幽芳などのほか、洋画家で朝日新聞の挿絵も描いていた山内愚仙や日本画家の稲野年恒らの居宅も桜の宮にありました。
当時大阪随一の米仲買人だった藤本清兵衛や南海鉄道社長の渡辺千代三郎が住んでいたこともあります。桜の宮は閑雅にして俗塵を離れた別天地でした。

図10)
『淀川両岸一覧「川崎 桜宮」』松川半山
桜宮の西岸は天満の川崎である。京へ上る船の船子(ふなこ)たちはここから陸に上がり、木村堤を長柄の三ッ頭まで約一里の間、舟を綱で引いて上り、そこから船に乗りこんで東堤へ近づける(淀川資料館「淀川両岸物語 今・昔・明日」展より)。

この大川一帯は、江戸時代後期から明治十八年の大洪水で桜の大半が枯死・荒廃してしまうまで、浪花随一の桜の名所でした。花の頃には、市中から徒歩や船で訪れる人が多く、「浪花において花見第一の勝地なり」と「摂津名所図会大成」でも絶賛されています。

「桜の宮」「百年目」「貧乏花見」など…。
上方落語の舞台としても登場します

上方落語の舞台としても桜の宮はよく登場します。「桜の宮」という演目は、長屋の連中が花見客であふれる桜の宮で仇討ちの芝居を打って大騒ぎとなる噺。「百年目」では、実直で真面目一方という番頭(実は遊び人)が、こっそり屋形船で出掛けた桜の宮で主人にばったり会ってしまいます。「貧乏花見」も、東京では「長屋の花見」となっていますが、もともとは大阪の噺です。

桜の宮堤防下にかつて水が渦巻く青湾という小湾がありました。豊臣秀吉がこのあたりの淀川の水が特に清らかであったことから、ここに小湾をつくり、青湾と名付けて茶の湯に用いたのです。上田秋成・田能村竹田ら雅人たちも賞賛したといいます。

図11)
青湾の碑(大阪市都島区中野町一 毛馬桜之宮公園内)
文久二年(一八六二)の春、湾の近くに住み、日々に煎茶の水を汲んだ文人画家・田能村直入が播州山崎藩主本多忠明に「青湾」二大字の揮毫を依頼して碑を建てたのが青湾碑です。落成記念には売茶翁百年忌追福を兼ね、大長寺などで「青湾茶会」が盛大に催されました。のちに青湾は埋められ、青湾碑だけが桜宮鳥居前の西側に残っていましたが、現在は淀川左岸の毛馬桜宮公園に移されています(大阪市「都島区の史跡」より)。

「水屋」という商売があったのをご存じでしょうか。明治の中頃まで、その水屋がこの青湾で水を汲み、水船に積んで市中で飲料水として売っていました。桶二杯分できつねうどん一杯くらいの値段だったそうです。

水の都、桜の宮の青湾が
その後上水道の水源地になりました

明治二十八年(一八九五年)、桜宮水源地より上水道が大阪市内へ給水を始めるまで、市内の家庭用水は河掘の水と井戸水に頼っていました。市内には水の都らしく淀川、東横堀川、西横堀川をはじめ各所に水汲み上げ場が設けられています。朝夕に水を汲み上げて家へ運ぶ奉公人の姿がよく見かけられました。

井戸も市内に四万ヵ所近くありましたが、飲料に適している井戸は実は二十五ヵ所に一ヵ所くらいしかありませんでした。水はこうした井戸のある家から貰い水をするか水汲み上げ場へ行くかしかなかったわけです。

明治十二年、十五年、そして十七、十八年と相次いでコレラが猛威を振るいました。これは淀川の下流の水を飲料水で使うことが原因ではないかと、上水道の整備が緊急の課題となります。そして明治二十八年に、この青湾のあったところに桜の宮水源地ができ、上水道での大阪市内への給水が始まったのです。

花見からちょっと脱線してしまいましたが、明治初期には八軒家かいわいのこうした大川べりが代表的なお花見の名所でした。もちろんほかにも天保山などいくつかお花見スポットがあります。ちょっと足を伸ばしてみましょう。

市内の移動はこの頃はバスも市電も地下鉄もありません。ということで人力車ということになります。明治四年三月、高麗橋一丁目に大阪で初めての人力車帳場(営業所)が開業しました。坪内逍遥はその著「当世書生気質」で明治十五年頃の有様として「到る所に車夫あり」と記しています。

図12)
「松島真景千代崎橋往来賑之図」小信
自転車・馬車・人力車など明治初期の乗り物が一同に描かれています。(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)

人力車は文明開化の日本人の発明。
市内を一万五千台が走っていました

人力車は文明開化の際に生れた日本人による発明品です。明治二十一年の「大阪繁昌番附」によると、人力車は、瓦斯灯、新聞、トキエ(時計)などと並んで「真の文明開化の王」とされています。海外へも輸出されました。

明治二年に原型が完成し、三年には東京府から営業許可が出ています。大阪でもすぐに普及しました。狭い路地が多い、日本の道路事情にぴったりな乗り物で、従来の駕籠に較べて格段に早かったので普及に弾みがつきました。駕籠かきから人力車車夫への職業替えが進みました。

大阪市域の人力車数は明治五年には千六百余り。それが明治十五年には一万四千台近くに増え、その後も明治三十五年くらいまでどんどん増加していきます。初代春団治は寄席から寄席へ朱塗りの人力車で駆けつけていたといいます。その後は市内の巡航船や鉄道の開設で徐々に衰退して行く運命でしたが…。

料金は梅田から堂島までが二銭、心斎橋までが四銭、難波までが九銭ほどでした(紡績工場の明治十六年の男子職工の平均日給が二十六銭)。ただ乗客と車夫との間で料金を巡ってのいさかいが絶えなかったといいます。

夕霧太夫で知られる新町九軒町は
明治に入っても夜桜で人気

お待たせしました。ではようやく出発です。まずは新町九軒。吉原・島原と並ぶ三大遊郭のひとつです。近松門左衛門の「廓文章」で有名な夕霧太夫のいた吉田屋はこの頃はまだありました(戦災で焼けるまで営業していたそうです)。
井筒屋太郎左衛門の庭には幹が十抱もある桜の老木があり、桜の名所でした(明治の初めまでは残っていたのかどうかは分りませんが)。

文化七年(一八一〇年)の出火で廓の大半が焼けましたが、建て替える際に、九軒町の片側の総高塀を取り払って、そこ一面へ桜を植えました。さらに安政五年(一八五八年)頃には揚屋・茶屋の門前に植樹して桜林のようにしつらえました。その頃は桜の中の花魁道中が有名でした。

明治になってからも塀の側には桜が並び、戦前までは土手の上に植えられた九軒町の桜があり、夜桜の名所となっていました。

図13)
「新町廓中九軒夜桜」(浪花百景)中井芳瀧
新町橋西側一帯の大坂で唯一の公認の遊所。江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊所の一つであった。この廓中一番賑わっていたのが瓢箪町。瓢箪町の由来については『摂津名所図会』には伏見の浪人木村亦次郎が廓の長を務めた折、瓢箪の馬印を拝領し常に玄関にかざっていたため、と記している(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

 では次は新町から西へ、明治二年に設けられた松島新地です。江戸時代の新町遊廓に代わる大阪の新たな遊廓として、木津川と尻無川の分流点である寺島(現在の松島公園付近)に開かれました。政府の意向により、近在のあちこちの遊所がこの地に集められるようになったため、東の吉原と並ぶ、西の遊所として賑わうことになります。桜の名所としても有名でした。

図14)
「新廓松嶋之図」(浪花名所)小信
小信は初代貞信の長男。通称徳太郎。はじめは小信と称したが、明治八年(一八七五)父貞信の跡を襲い二代貞信と称した。父貞信(初代)の下に修行していたが、のち一鶯斎芳梅に学んだ。慶応三年(一八六七)二十才頃から画作をはじめ、鳥羽伏見の戦い、続く明治天皇の難波御幸など当時の世情を主題にした作品を一挙に描いた。維新以後も、大阪市中の開化風俗を描く錦絵・風景版画を数多く遺した(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

明治十六年は大阪が工業化都市へと
大きく舵を切った時代の転換期

いかがでしたでしょうか、明治時代の八軒家かいわいでのお花見。駆け足で廻ってみましたが、まだまだこの頃の大川沿いは工場の煙突がちらほら見えるとはいうものの、色濃く城下町の風情が残っていたように思います。

ざんぎり頭を叩いてみれば煤煙まみれの町がある 。明治十六年という時期は江戸時代の情緒を残してはいましたが、同時に大阪が急速に東洋のマンチェスターと呼ばれる工業都市へ変貌しようとしていた時期でもありました。そして、富国強兵の大波は日本を日清戦争、そして日露戦争へと押し流してゆくことになるのです。
(平野)

参考資料
「造幣局八十年史」(大蔵省造幣局編 一九五三年刊)
「明治・大正家庭史年表」(下川耿史 家庭総合研究会編 河出書房新社)
「毎日放送文化双書〈8〉大坂の風俗」(宮本又次著 毎日放送)
「大阪の研究 第五巻」(宮本又次編 清文堂出版)
「日本随筆紀行17 声はずむ水の都」(藤沢恒夫ほか著 作品社)
「増補改訂 大阪近代史話」(「大阪の歴史」研究会編)
「てんま 風土記大阪 」(宮本又次著 大阪天満宮発行)
「新修大阪市史第五巻」(新修大阪市史編纂委員会)
「上方落語 桂米朝コレクション」 (ちくま文庫)
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