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八軒家タイムトラベル 慶長二十年(一六一五年)五月七日
大坂夏の陣図屏風(1)

大坂夏の陣
ゲルニカ絵巻、
これが全容。

スペイン内戦時のゲルニカ。ナチスが無差別空爆を行い、フランコ軍が暴虐非道な残虐行為を尽くしました。ピカソはそんなゲルニカの悲惨な状況を縦三・五メートル、横七・八メートルの大キャンバスに描きました。

今回ご紹介するのは、そんなゲルニカに匹敵するような屏風絵。黒田長政が描かせた六曲一双の大坂夏の陣図屏風(通称黒田屏風)です。右隻には五月七日の最後の決戦の様子が、そして左隻には落城後の避難民の悲惨な状況が詳細に描かれています。慶長二十年五月七日の夏の陣の光と陰。左隻はもちろん合戦の陰の部分。もう一つの夏の陣です。

図)
「大坂夏の陣図屏風」左隻(クリックで開・閉)

奥女中や敗残兵、城詰めの商人たちが
城を捨てて一斉に極楽橋へ殺到

夏の陣の決戦の火蓋が切られたのは七日の正午頃でした。まず天王寺口から戦闘が始まり、ついで全面的な戦いとなります。東軍十五万五千、西軍五万五千。両軍とも死力を尽くして戦います。

なかでも西軍の真田幸村親子の働きは目覚しいものがあり、家康の本陣めがけて突き進み、家康の馬印を倒し、一時は家康に「もはやこれまで」と思わせたほどでした。

しかし兵のほとんどが玉砕し、幸村自身も戦死を遂げます。午後三時頃には西軍の名だたる将士の多くを失い、敗戦はあきらかでした。この合戦での大坂方の戦死者は一万五千とも一万八千とも言われます。両軍合わせれば二万は下らなかったと思われます。

こうなるともう一斉に敗残兵が城内へ逃げ戻ってきます。城中には冬の陣で本丸女中が一万人いましたが、夏の陣でも同じほどの侍女たちが城中にいたはず。雑役に従事していた非戦闘員や商人や百姓もかなりな数に上ります。

秀頼の馬印さえ捨て置かれるほどの
混乱ぶり。そして城中に火の手が…

この頃、台所頭大隈与右衛門が東軍に内応して放火。城中に火の手が上がります。東軍は勢いづいて三の丸に押し入ります。火の手はどんどん広がります。午後二時頃にはすでに三の丸が落ちてしまいました。

城内は全く収拾がつかないほどの混乱です。淀君の侍女お菊が落城の日の城内の有様を語った「おきく物語」には「いよいよ落城だというので、城から脱出しようとすると、豊臣秀頼の馬印が転がっていた。豊臣家の恥辱になると思って慌ててそれを打ち砕いて捨ててから逃げた」とあります。豊臣家の権威のシンボルとも言える馬印にさえ誰も目留めないほどの混乱ぶりでした。

図1/大坂城を脱出する人々(「戦国合戦絵屏風集成 第四巻」より)。婦人を背負った兵士もいます。長持ちやつづらを担いで急ぐ足軽たちがいます。橋から落ちている赤小袖の女と足軽も描かれています。堀の西側を北へ逃げる敗残兵の一人は重くて暑い鎧を脱いで、内堀へ投げ捨てています。

冬の陣のあと堀を埋められた大坂城は、もはや本丸を残すのみという状態。いわば裸の城です。これでは籠城もかないません。人々はもはや落城寸前という城を捨て、北へ向かって脱出していきます。
みんな一斉に本丸の北側、二の丸に架かる極楽橋へ殺到しました。もう戦う気力は残っていません。旧暦の五月七日といえば新暦では六月二、三日。耐え難いような暑い一日だったことでしょう。大坂城が落城したのはそのすぐあと、午後四時頃でした。

決戦その日のうちの落城ー
市民たちも北へ北へと逃れます

家康は第九子義直の婚儀という名目で四月四日に駿府を出発。婚儀を済ませて十八日には京都へ入っていました。各大名の軍勢も続々と大坂周辺に集結しつつあります。家康は「今回は三日で勝負がつく」と兵士たちに三日分の兵糧しか用意させなかったといいます。しかし大坂の市民たちはそんなことを知る由もありません。

市中では合戦直前まで大勢の市民がいつもと変わらぬ商いをしていました。このような市民らが戦争の巻き添えを食って多数の命を落としたのです。
合戦の動きが予想もしないほど早かった。なにしろ家康が大軍を率いて京都を出て大坂へ向かったのが五月五日。それから二日後の七日には天王寺などでの決戦があり、その日の内に落城したのですから無理もありません。市民たちは荷物をまとめて逃げるひまもなかったのです。

図2/船場附近を北へ急ぐ避難民と兵士たち(「戦国合戦絵屏風集成 第四巻」より)。東軍が攻め込み、殺戮が繰り広げられています。素首を二つも持って走る兵士や首を切り落された死体。路上での取っ組み合いや斬り合い、乗り手を失って暴れ狂う馬。荷物を担いだり、子供を背負ったり、赤子を抱えたりして市民たちは逃げ惑っています。

徳川の軍勢は南から大坂城へ向かって攻めあがってきました。避難民や敗残兵は北へ脱出するほかはありませんでした。でもそこには橋が落とされている大川が立ちはだかっていたのです。

戦場での略奪は兵士への褒章の一つ
雑兵たちが今度は暴徒となって襲います

凶作続きの村では、その過酷な生活環境の中でもなんとか生きのびていかねばなりません。そんな数少ない選択肢の一つが、大名の雑兵募集に応じて、農閑期に兵となって戦場へ行くことでした。

大名にとっても村人を傭兵として活用することが不可欠でした。少なくともその間は兵糧が支給されます。さらに敵地では、作戦に支障をきたさない範囲であれば略奪はし放題も同然でした。

戦国大名の軍団の七割から八割はそんな雑兵が占めていたのです。戦国の民衆といえば戦争に巻き込まれて逃げまどう姿が浮かびます。確かにそれは地獄絵そのものですが、しかし略奪を繰り返す雑兵たちも同じ民衆だったわけです。

夏の陣の際、奈良へ出陣した家康は、村々で大坂方への奉公を希望するものが相次いでいるのを見て、庄屋たちに「もし奉公に出れば子孫はもちろん、親類まで成敗する」と脅しをかけています。しかし戦争があると聞けば農繁期であっても村人は競って戦場へ殺到したのです。

図3/大坂城外東北部の混乱(「戦国合戦絵屏風集成 第四巻」より)。左下には京橋口を目指して南下するのは東軍の池田長幸隊でしょうか(白地に花クルスの幟)。後れて到着した徳川方が北側から大坂城をめざして、手当たり次第に殺戮を繰り広げています。

そんな雑兵と一緒に逃げのびるのですから、片時も用心を忘れてはいけません。しかも後れて来た東軍が北の対岸に迫って来ていました。
前述の淀君の侍女お菊は「逃げまどううちに雑兵が現れて丸裸にされそうになったが、懐中に持っていた竹流し(金貨)を差し出して難を免れた」と語っています。
(平野)
図1/大坂城を脱出する人々
図2/船場附近を北へ急ぐ避難民と兵士たち
図3/大坂城外東北部の混乱
図4/淀川・大和川合流点附近の惨状
図5/天満橋附近
図6/天満橋下流の避難民
図7/追い首・にせ首と婦女の惨禍
図8/7に同じ(天満天神境内)
図9/長柄川を渡る避難民
図10/若い娘を取り囲む雑兵
図11/神崎川を越えて避難する人々と野盗
※タイトルは「戦国合戦絵屏風集成 第四巻」による。

参考資料
「戦国合戦絵屏風集成 第四巻」(桑田忠親編 中央公論社)
「戦争と民衆ー『大坂夏の陣図屏風』の世界」(歴史地理教育2003年6月号 北川央著 歴史教育者協議会)
「大坂の陣 証言・史上最大の攻防戦」(二木謙一著 中公新書)
「大坂城秘ストリー」(渡辺 武著 東方出版)
「新版 雑兵たちの戦場ー中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日新聞社)
「完全制覇 戦国合戦史」(外川淳著 立風書房)
「戦国争乱を生きるー大名・村、そして女たち」(舘鼻誠著 日本放送出版協会)
「戦国の村を行く」(藤木久志著 朝日選書)
「新編 日本合戦全集 天下平定編5」(桑田忠親著 秋田書店)
「雑兵物語 おあむ物語 附おきく物語」(中村通夫校訂 岩波文庫)
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