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八軒家タイムトラベル 昭和二十年(一九四五年)六月一日
大阪大空襲あの日あの時(2)

焼夷弾と爆撃、そして機銃掃射まで―
八軒家界隈が
焼き尽くされた
六月の大空襲

昭和二十年、三月の大空襲のあとは四月、五月とB29は飛来したりするものの爆撃もなく平穏な日が続きます。しかし投弾はなかったものの四月は二十九回、五月は三十二回の警戒警報が発令され、不安な日々ではありました。

この年は四月十五日から造幣局の通り抜けが始まりましたが十八日午後十二時五十分に空襲警報発令。明治十六年以来続いていた通り抜けが初めて中止されました(大空襲では「通り抜け」の桜五百本のうち三百本が降りかかる焼夷弾で焼失しました)。

四月一日にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸、五月二日にはベルリンが陥落、そして八日ドイツは無条件降伏をします。このような戦局のなかで大阪市内では建物疎開が強行され多くの人々が住まいを失いました。三月中旬から六月中旬まで三万四千九百二戸が取り壊されます。「いよいよ本土決戦か」と緊張感がみなぎっていきます。

沖縄進攻を終えたB29部隊が
再び本土大都市の爆撃開始

五月九日午前零時過ぎにB29一機が高井田(現東大阪市)に撃墜され搭乗員一人が捕虜となったということはありました。対空砲火が命中したということで多くの見物人が押しかけたといいます。

空襲とは別に五月になるとB29による機雷の投下が始まります。下関から東京湾まで大規模なもの。神戸 大阪水域へは十二機のB29が二度にわたり一機当り二千ポンド(九百キロ)機雷七個が投下されました。

機雷とは艦艇が航行する際に、触れたり、艦艇が発生する磁気や水圧の変化に感応して起爆するもの。当時の日本では掃海もできずお手上げ状態。数多くの触雷による被害が甚大でした。日本の海上輸送はこれにより麻痺状態に陥りました。

図1)
マリアナ諸島のテニアン島から空爆に向かうB29。

マリアナ基地のB29の部隊は四月中旬より沖縄進攻支援にあたっていましたが、五月十一日をもって終了。再び大都市への絨毯爆撃を始めます。名古屋、東京、横浜が五月末まで大空襲にさらされ、これら三都市がほぼ焼き尽くされました。

残ったのは大阪と神戸。大阪に対しては六月一日の白昼、B29とP51による第二次大空襲、続いて七日に第三次、十五日に第四次と大規模焼夷弾爆撃が繰り返されました(この間、五日には神戸への大空襲がありました。この爆撃で神戸は壊滅。まだ焼き払うべきところが残る大都市は大阪だけになりました)。

六月一日の大空襲は
大阪湾岸と造兵廠周辺がターゲット

六月一日の第二次大阪大空襲は午前九時から十一時過ぎまで、白昼に行なわれました。三月の大空襲で大阪の中心部は焼失しています。残されたのは地形状効果的な爆撃がむずかしい地域でした。つまり海岸線に沿った西部と造兵廠を取り囲む住宅地区の北部と東部です(第一次の際と同じく作戦計画通りにはいきませんでしたが)。攻撃目標の位置確認のためには夜間より昼間の攻撃の方がよいという判断でしょう。

マリアナ基地を発進したB29四五八機が二七八〇トン以上の爆薬を大阪市内に投弾し、八・二平方キロに損害を与えました。爆撃時間は午前九時二十八分から十一時まで。対空砲火で撃ち落されたのはわずか五機。故障などによる損失が五機と軽微な被害でした(損傷は百二十七機)。

図2)
雨あられの形容がぴったりの米B29の投弾(「写真集なにわ今昔」毎日新聞社より)。

横に広がったB29の大編隊が
大阪の空を覆いつくす

この日、B29部隊は淡路島の洲本上空を経て大阪湾へ四十五度の角度で進んできました。大阪市の築港からはB29の大編隊が空一面を埋め尽くす光景が眺められたといいます。編隊の雁型が横に広がってつぎつぎと現れ、雨のように焼夷弾を落としていったのです。

それと同時にP51戦闘機が築港一帯を機銃掃射します。周辺の工場地帯へは学徒動員されていた生徒たちが大勢居ました。そうした生徒たちにも容赦なく弾丸が降り注いだわけです。壁には直径三〜四センチの機銃掃射の跡がいくつもあいています。
6月1日、焼夷弾・爆弾による市内北西部・西部の臨海地域に対する空襲(「写真で見る大阪市100年」大阪都市協会より)。
此花区西部には西六社(住友電気、住友金属、住友化学、日立造船、汽車会社、大阪瓦斯)と呼ばれる巨大な工場群があり、大阪市内最大の重化学工業地帯でした。八時半の始業後少したって警戒警報、空襲警報が出ていましたが、たびたびの警報ごとに作業を停止していては能率が上がらないということで、そのまま作業が続けられていた工場も多かったようです。そんな最中の一斉大規模焼夷弾攻撃でした。

旅館など八軒家の町並みは全焼。
大阪城の南も焼け野原に

八軒家には戦前までは米・砂糖・塩・茶・金物・菓子・材木などの問屋をはじめ、旅館や食堂などの商家、川船や四輪馬車の運送店が軒を並べていました。戦時中の物資統制令によりかなりさびれてはいましたが、このあたりがこの大空襲でほぼ全焼。残った建物はアイゼンベルク商会と尼崎浪速信用金庫(当時は第一貯蓄信用金庫)の鉄筋の二棟のみでした。

この戦災で八軒家の旅館「枡屋旅館」「いずみや」「大和屋」などが廃業しています。八軒家郵便局(現在永田屋昆布のある敷地)も戦災で廃止となりました。

大阪城の南の東雲町(戦後、山之下町と合併して玉造になりました)でも、大雨のようにザアザアと焼夷弾が降り、一帯が火の海になりました。家屋疎開によってできた百坪ほどの空地がありましたが、そこへ避難していた人々も爆撃で亡くなりました。空地だけで五十人以上の焼死体があったといいます。一面焼け野原で、残っている建物といえば土蔵が二つとウイルミナ女学院(現大阪女学院)の鉄筋の校舎だけでした。

最強の戦闘機P51が初めて来襲。
北浜や御堂筋で機銃掃射

第二次世界大戦でのアメリカ最強の戦闘機といわれたP51ムスタングが、六月一日の第二次大空襲の際、初めて大阪へ来襲しています。B29部隊を援護するためです。硫黄島を飛び立ったP51は一四八機でしたが、悪天候と乱気流で大半が基地へひきかえしました。大阪への空襲に参戦したのは二十七機とわずかでしたが大阪市街を蹂躙したのです。

北浜や御堂筋ではこのP51の機銃掃射がありました。ヒュルヒュル、バシッ、バシッという金属音とともに機銃弾が炸裂し、火と煙があがります。そのなかを逃げ惑う市民たち。B29の投弾で堂島川に何本もの水柱があがります。北から天満橋を渡ろうとしても橋の先には火の手がいくつもあがっていて渡れません。

焼夷弾による火災は広がるばかりです。火だるまになりながらの消火活動が繰り広げられました。空襲では「火を消す」ことが「敵と戦う」ことでした。

この第二次大空襲での羅災者は約二十二万人、死者三一一二人、行方不明八七七人にものぼりました。此花区や港区のほか北区や東区でも多くの犠牲者が出ています。

爆発と同時の破片弾二十個が飛び散る。
残虐極まりないT4E4破砕集束弾

今回はM69、M47など第一次大空襲の際に投弾された焼夷弾のほか、M50焼夷弾を搭載していました。M69は麻布製のリボンを尾翼の代用にしていましたが、M50は二十二センチのアルミ翼。一・八キロの小型テルミットマグネシウム焼夷弾です。貫徹力が強く、重工業地帯に有効。目標の建築物の金属を溶解する強烈な熱を発生します。このM50を百十個内蔵したものがM17という集束弾です。主として工場が混在する地域に用いられました。

T4E4破砕集束弾も投下されました。九キロの破片弾二十個を集束した爆弾です。地上九百メートルの高さで爆発と同時に長さ三十センチ、中径九センチの破片弾が二十個飛び散って人を殺傷するという残虐極まりないものでした。これで消火活動を妨害し、焼夷弾の効果を高める狙いです。

雨あられのように降り注がれる焼夷弾で市街は火の海に。やがて噴煙で空は真昼間なのに暗夜のごとく暗くなり、暗闇の中を猛煙がたちこめ真っ赤な火焔が覆います。晴れていた空が一転、黒い雨が降り始めます。

P51のパイロットの報告によると「大阪は上空五千メートル前後まで煙りの柱が立ち上るほど燃えていた」といいます。

図3)
6月1日 もうもうと黒煙に包まれる大阪港のドック・倉庫群(「写真集なにわ今昔」毎日新聞社より)。

黒い雨は原爆投下の際にだけ発生する気象現象ではありません。一般の空襲でも黒い雨が降るのです。大火事によって地上の空気は熱せられ強い上昇気流が起こります。上昇した空気は冷却され沢山の水滴が生れます。それで入道雲(積乱雲)が生れるのです。水滴は灰の粒が核になっていますから、黒い雨となるのです。

黒い雨だけでなく、突風も起こり、雷鳴も生じます。炎上する町の中を黒い雨に打たれながら彷徨した空襲体験者からその記憶を拭い去ることはできないでしょう。

七日には第三次大空襲。B29のほか
P51戦闘機が一三八機も襲来!

六月七日正午前後に第三次大空襲がありました。この空襲は大阪市東部と造兵廠がターゲット、B29攻撃部隊は合計四四九機、内四〇九機が大阪上空に到達しました。硫黄島から発進したP51一三八機が四国上空でB29部隊に加わり、援護隊形をとって大阪へ向かいます。

午前十一時十分から一時間半にわたって、焼夷弾および高性能爆弾による猛攻撃が加えられました。結果は大阪市北東部に甚大な被害を与えましたが、造兵廠の爆撃には失敗しています(B29の損失は二機)。
6月7日 炎上する福島区の倉庫群。黒煙は太陽をさえぎり、雨を呼んだ(「写真集なにわ今昔」毎日新聞社より)。
しかし造兵廠に投下されるはずの爆弾が大阪市北東部に大量に落とされたため、大惨事を引き起こしました。焼夷弾や爆弾攻撃のほかP51による機銃掃射まであり、まさに地獄絵の様相を呈しました。

図4)
大阪国際平和センター(ピースおおさか)で展示されている1トン爆弾の模型。

天満橋駅が全焼。天満橋から
谷町四丁目までが火の海に

八軒家かいわいでは造兵廠の事務所が全焼、陸軍病院大手前分院が半焼するなど官庁や軍の建物が被害を受けたほか、京阪電鉄の天満橋駅が全焼し、天満橋 守口間が不通になっています。
6月7日 市内に投下されたB29の弾量は2540トン。京阪電車のターミナル・旧天満橋駅も無残な姿に(「写真集なにわ今昔」毎日新聞社より)。
北大江地区は六月一日の空襲で半分が焼け、残ったところもこの七日の空襲で焼けてしまいました。現在の府立労働会館のところに内務省の貯金支局があり消防車もそちらの鎮火で手一杯。民家まで手が回らずわずか三十分とせぬうちに、あたり一帯が火の海となりました。空襲後、一週間くらい火がくすぶっていたといいます。天満橋から谷町四丁目あたりまで家らしい家は一軒もなく、焼け残った土蔵がちらほらという悲惨な状況でした。

長柄橋河川敷の惨劇。
避難した人たちへ集中銃爆撃

長柄橋には広い河川敷があり、橋も頑丈なコンクリート造りであることから絶好の避難所として多くの人がここへ逃れてきていました。ところがその長柄橋周辺にB29とP51の銃爆撃が集中したのです。

大阪は狭い路地と密集家屋が多く、共同の防空壕が作れないところが多かった。ということで空襲があれば公園や空地や川岸へ逃げる。それをP51が狙い撃ちしたのです。

図5)
1948年に米軍が撮影した淀川河川敷。いくつも見える黒の斑点が1トン爆弾の跡。右下が城北公園。

この空襲で長柄橋の対岸の柴島浄水場にも焼夷弾と爆弾が落下。沈殿池や送水ポンプ場が破壊され、以降大阪市民は上水道による水の供給を受けられなくなり、飲料水はわずかな給水車による配給や井戸水に頼ることになります。

長柄橋で惨劇が繰り広げられていた頃、約三キロ東の城北公園でもB29の爆撃だけでなく、P51の機銃掃射が執拗に繰り返されていました。逃げ惑う群集への容赦のない機銃掃射です。一トン爆弾、五〇〇キロ爆弾、M47焼夷弾、M69焼夷弾、T4E4破砕集束弾が降り注ぎ、そこへP51の機銃掃射。まさに阿鼻叫喚地獄です。一帯は足の踏み場もないほどの死体の山となりました。

城北公園に接した淀川堤には千人塚と平和地蔵が建てられ毎年「六月大空襲犠牲者慰霊法要」が営まれています。近年までこの時の爆撃でできた爆弾池が周辺に幾つも残っていました。

図6)
平和地蔵尊と千人塚(大阪市旭区生江三丁目)
塚の由来記に「昭和二十年六月七日残存せる大阪を壊滅せる大空襲により戦災死者数万人中身元不詳の千数百の遺体を此処に集め疎開家屋の廃材を以って茶毘に付す」とあります。

B29の大編隊が波状攻撃。
爆弾と焼夷弾、そして機銃掃射…

今回の大空襲は特徴が三つありました。一つは爆弾および焼夷弾の混投だったこと。まず爆弾によって恐怖心を誘発し、そののちに多数の焼夷弾を投下する。もう一つは第一波から第三波まで本格的波状攻撃を加えたこと。しかも四、五分間隔で大編隊のB29が襲ってきたこと。最後に前回には少なかったP51が一三八機もやってきて逃げ惑う人々へ機銃掃射を加えたことでした。

羅災者は約二十万人、死者は二七五九人、行方不明七十三人。いままでの空襲でほとんど被害のなかった大阪市の北東部、都島区が大打撃を被りました。

図7)
6月7日 都島中通り付近(「写真集なにわ今昔」毎日新聞社より)。

第四次大空襲は六月十五日。
大阪は完膚なきまで壊滅状態に

第四次大空襲は六月十五日。B29四四四機による大阪・尼崎都市区域への焼夷弾攻撃でした。もともとは九州の八幡を攻撃する予定だったものが、北九州地域の天候不良により目標が変更されたのです。

大阪や尼崎にはやや大きな工場のほか家内工業的な工場も入り混じっており、そこで働く労働者の住居も混在している。工場の多くは軍需工業を営み、兵器の生産を担っている。ここを叩かねばならないということで、大阪方面への最後の大規模な焼夷弾攻撃がなされたのです。この大編隊のB29に対し、迎え撃つ日本軍機はわずか二機だったといいます。

図8)
6月15日 味原付近から近鉄鶴橋駅を望む(「写真集なにわ今昔」毎日新聞社より)。

八幡の重工業地域向けということで焼夷弾も、前述のM50を集束したM17が主体でした。十五日の午前八時四十五分頃から十一時頃までこの焼夷弾を投下したのです。これによって大阪では四・九平方キロ、尼崎では一・五平方キロを破壊しました。この時にもB29の援護のためP51一〇〇機が硫黄島を発進しましたが、天候悪化のため全機が引き返しています。

軍需工業の工場をことごとく爆撃。
一四七九工場が被害を受けました

三月十三〜四日で大阪市の中心部、六月一日と七日で大阪市の西部、北部、北東部を大空襲で破壊。残された鶴橋や天王寺などの南東部と淀川(新淀川)の北側が今回の攻撃目標でした。

羅災者は約十八万人、死者四七七人、行方不明六十七人。被害を受けた工場は一四七九工場にものぼりました。内訳は航空機関係四七二工場、兵器関係二六五工場、鉄鋼関係一三八工場など。このほか電気、ガス、水道、交通機関の途絶または不通により操業不能となる工場も多く、軍需工場は壊滅的な打撃を与えられました。

三月十三日の第一次からこの六月十五日の第四次までの四回にわたる大空襲で大阪の工場も住居も壊滅状態に陥りました。この第四次大阪大空襲をもってB29部隊による五大都市に対する焼夷弾攻撃作戦は完了し、大阪へのB29による爆撃は、それ以降精密爆撃に限られ、主に住友金属と造兵廠への攻撃が反復されることになります。焼夷弾攻撃は中小都市へ照準が向けられることになりました。
(平野)

参考資料
「続東区史第3巻」(大阪市東区史刊行委員会)
「続東区史 別巻」(大阪市東区史刊行委員会)
「大阪市戦災復興誌」(大阪市役所)
「大阪市史第7巻」(大阪市史編纂所)
「日本の歴史第25巻 太平洋戦争」(林 茂著 中央公論社)
「大阪大空襲 大阪が壊滅した日 」(小山仁示著 東方出版)
「大阪砲兵工廠の研究」(三宅宏司著 思文閣出版)
「大阪大空襲」(大阪大空襲の体験を語る会編 大和書房)
「写真集なにわ今昔」(毎日新聞社編)
「写真で見る大阪市100年」(大阪都市協会編)
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