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八軒家タイムトラベル 江戸時代六月二十五日

大阪人なら知っておきたい
江戸時代の天神祭
エピソードあれこれ

東海道中膝栗毛(十返舎一九)の八編は浪花見物です。弥次さん喜多さんは、伏見から三十石船の昼船に飛び乗り八軒家へ。長町に宿をとった二人は明くる朝、高津神社へお参りしたあと天満橋へやってきます。

図1)
「東海道中膝栗毛」十返舎一九
大阪八軒家の図(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より)。

大川には太鼓や三味線でにぎやかな遊山舟が多数往来しています。その舟の客を橋の上からからかう男たち。そのやりとりを眺めながら橋を渡って西へ。青物市場のにぎわいを抜けると天満宮です。

芝居、曲芸、料理茶屋…。天満宮の
賑わいに弥次さん、喜多さんもびっくり!

「参詣客で賑わうなか、料理茶屋、楊弓場(ようきゅうば=射的屋)のほか能狂言、ものまね、芝居、軽わざ、曲馬乗りなどが境内に満ち溢れている」と天満宮の繁昌ぶりが紹介されています。

図2)
大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目)。現在の表門(大門)=二〇一〇年六月撮影

お参りを済ませ天神橋通りへ出たところで坐摩神社の富札を拾います。これがなんと百両の当たり札。ということで二人は威勢よく新町の廓へ繰り出します。とまあこんな調子で大坂での珍道中が繰り広げられていきます。

膝栗毛八編が出版されたのは文化六年(一八〇九年)。膝栗毛は当時のいわば観光ガイドでもありました。弥次さん喜多さんは天神祭の見物はしなかったようですが、この頃の天満宮のにぎわいがよく分かります。大坂の観光地としての人気ぶりが伝わってくるような記述です。

大石内蔵助の妻おりくは大の祭好き。
夫の勧めで赤穂から天神祭見物へ

時代を少し遡って今度は元禄二年(一六八九年)。丸亀藩主の母の侍女として江戸へ下っていた、国学者でもある井上通女は、江戸からの帰途天神祭の宵々宮を見物し、その賑わいぶりを「帰家日記」に書いています。
「目を驚かすほど多くの舟が川に溢れ、神楽を奉っている。地車(だし)が走り、太鼓も威勢よく物狂わしきまで踊り騒いでいる」。

大阪天満宮の社伝によると平安中期の天暦五年(九五一年)に鉾流神事が始まったとされていますが、江戸時代前の天神祭に関する具体的な記録はあまり見当たりません。元禄に入ったこのあたりからよく見られるようになりました。元禄時代に入って以降、天神祭が全国的な祭として発展していったことが分ります。

図3)
「大坂市街・淀川堤図屏風」(部分)
天満天神社(大坂天満宮)では夏の天神祭がおこなわれている。神輿の前方を行く催太鼓は、大坂城に備えつけてあった太鼓を秀吉が寄進したものと伝承される。大坂の陣で天神社は大きな被害をうけ、神輿も吹田村に避難した。天満へ戻るのはおよそ三十年後、祭神菅原道真の生誕八百年にあたる寛永二十一年(一六四四)のことだったという(大阪城天守閣編「特別展 豊臣期大坂図屏風」図録より)。

同じ頃、赤穂の大石内蔵助もお祭好きの妻おりくに天神祭見物へ行かせています。内蔵助も、元禄六年には京都で伊藤仁斎に儒学を学んでいましたから、三十石舟で見物に出掛けたことがあったのかもしれません。

なんと5m近い巨大なものまで。
御迎人形は天神祭の華だった!

天神祭の御神霊は船で大川を下って御旅所へ渡ります。元禄期になると、この御旅所周辺の町々では、さまざまな趣向を凝らした風流人形を各町角で披露するようになりました。そのあとにこの御迎人形を御迎船に飾り立てて船列を組むようになったようです。これにより船渡御が一気に華やかなものになりました。
御迎人形はその多くが人形浄瑠璃や歌舞伎の登場人物を題材にされています。背景には西鶴や近松門左衛門などに代表される浪速の町人文化の発展がありました。

図4)
「御迎人形石橋之図」藤田台石
石橋は、唐の清涼山の石橋にあらわれた霊獣の獅子を題材とした謡曲にちなんだ猿楽舞があり、それを歌舞伎・狂言の所作事にしたものという(大阪天満宮文化研究所編「天神祭 火と水の都市祭礼」より)。

当初は二・四mほどの大きさで、舳先に棒で高く掲げ、大型のぼんぼりで照らしていましたが、享和期(一七一六~一七三六年)頃からは四・五mもある大型人形も新調され、船上に舞台を設けて物語性の演出がなされるようになりました。しかも頭や手足が動くからくり人形でした。こうして江戸時代の天神祭では御迎人形を見ては好きな芝居を思い描くという楽しみもあったわけです。
残念ながら御迎人形は完全な形では現在十五体しか残っていませんが、最盛期には五十体を越えていただろうといわれています。

ではこれらの人形を作った作者はどんな人たちだったのでしょうか。現在残されている十五体の人形の作者は大半が大江姓。彼らは新町堀に住んでいた竹田からくり専属の人形師でした。からくり人形のほかにも見世物小屋で見せるさまざまな細工物も作っていたようです。
明治になってこうした人形師がいなくなるとともに御迎人形も作られなくなり、いまでは天神祭の際に境内で数体公開されるのみとなりました。

図5)
御迎人形(大阪市北区天神橋二丁目)。地元の天神橋筋2丁目商店街のアーケイド入り口には、御迎人形をモチーフにした飾りが設えてある。題材は(左上から時計回りに)羽柴秀吉・佐々木高綱・中村勘助・源義家。

道頓堀の蟹や河豚の大看板の
ルーツが天神祭にあった!

天保八年(一八三七年)の大塩平八郎の乱で天満宮は焼失しましたが、八年後の弘化二年(一八四五年)に再建。天満の町は祝気分に溢れ、華やかに飾り立てられました。
御旅所周辺での御迎人形や造り物を見学して歩くための案内図や絵番付が何枚も残されています(御迎人形は天満宮所蔵ではなく、当時は氏子の所有だったので、焼失をまぬがれていたのです)。暁鐘成作・松川半山画「天満宮御神事御迎舩人形図会」も再建を記念して刊行されました。

図6)
「天満宮御神事御迎舩人形図会」暁鐘成作・松川半山画
三番叟(さんばそう)の図。元来は能楽の祝言曲であったが、やがて歌舞伎や人形浄瑠璃に移入され、序幕の前に祝儀として舞った(解説・高島幸次)。

前述の造り物というのは藤の花や牡丹。天神橋北詰から東へ数百m、蜆の貝殻を使った藤棚が造られました。西側は商家の屋根ごとに紙細工で牡丹の花壇が設けられます。
こうした造り物はその後明治二十五年くらいまで続きました。氏子が競うように自宅の屋根の上にあれこれ日用品を使って物語や伝説の名場面を飾り立てたといいます。
そもそも商家の屋根は看板を掲げる場所。ということでたとえば傘屋は傘を使ったもの、桶屋は桶でといった具合です。こうした造り物が、現在の道頓堀の蟹や河豚の造り物につながっています。

安政南海大地震の六ヶ月後。
天神祭でみせた浪花パワー

安政元年(一八五四年)十一月四日の安政東海地震では大坂の被害は大きくありませんでしたが続けて翌日に起こった安政南海地震に伴った津波の被害は甚大なものがありました。
安治川・木津川河口付近に停泊していた数百隻の大型船が津波に押し上げられ、この遡行によって堀川に架かる橋のほとんどが破損・倒壊し、周辺の家屋も大きな被害を受けました。

ただ浪速っ子はそんなことではくじけません。それから半年後の天神祭では前年の倍にあたる十二台の地車を繰り出しての宮入を行い船渡御も盛大でした。なかでも米商い場の堂島地車は揃いの赤衣で一万二〜三千人が曳いたといいます。大地震後の不況を祭のパワーで吹き飛ばそうとしたのです。

図7)
「堂島地車図」山本笙園
この図は昭和十年頃の堂島浜通りの地車を描いたもの。(大阪天満宮文化研究所編「天神祭 火と水の都市祭礼」より)

浪士組(のちの新選組)の元盟主・清河八郎は二十五才の頃、伊勢参りの帰りに大坂へ立ち寄りました。その際、ゆっくり天神祭を見物しています。清川八郎が見た天神祭はこの地震の半年後のものでした。

江戸時代の天神祭を支えたのは
青物市場、米市場、魚市場だった

江戸時代、天満宮は前述の大塩の乱(大塩焼け)以外にも、享保九年(一七二四年)の妙知焼けをはじめ、記録に残るだけで七度もの火災にあっています。でもその都度、商家や氏子の熱い協力で復興してきました。
そこには単なる信仰心だけではなく、大坂庶民の心意気があったに違いありません。その象徴が天神祭だったといえるでしょう。

天満宮の氏地には大坂の三大市場である天満の青物市場、堂島の米市場、雑魚場の魚市場がありました。これらの市場からの支援は経済的なものにとどまらず、実際の祭の担い手としても頼りがいのあるものでした。

幕末の安政年間に暁鐘成によって記された「摂津名所図会大成」には天神祭の様子が次のように描かれています。
「御迎船は華麗な楼船(やかたぶね)に人形を造り、神御輿の船を迎える。これを見ようと数百の楼船が大川を埋めんばかりに群集する。川岸には篝火が焚かれまるで真昼間のようだ。三味線や太鼓ではやして歌をうたう船遊びをしている者もいる。花火は星のように降り、市中はだんじりやにわか狂言が一日中続いている。浪速はこの世のものとも思えぬような賑わいだ」

図8)
「摂州難波橋天神祭の図」(諸国名所百景)二代歌川広重
難波橋は、現在では堂島川、中之島公園、土佐堀川にまたがって架かり、ライオン像を有することで知られている。江戸期には浪華三大橋として公儀橋に指定され、界隈には諸藩の蔵屋敷が建ち並びそれを取り巻くように問屋街が形成され、大変な賑いをみせた(大阪府立中之島図書館「錦絵に見る大阪の風景」より)。

こうして毎年盛り上がりを見せていた天神祭も幕末の大変動期に巻き込まれていきます。世情も騒然としてきました。こうした中、慶応元年(一八六五年)、天神祭は中止となります。天神祭はその後、明治四、五年に復活。再度の中絶後、明治十四(一八八一年)年から本格的に復興することになります。
(平野)

参考資料
「天神祭 水の都・千年の祭」(米山俊直ほか編著 東方出版)
「天神祭 なにわの響き」(井野辺 潔ほか編著 創元社)
「大阪春秋第49号 特集天満宮と天神信仰」(大阪春秋社)
「文の庫 特集天神祭」(大阪出版協会)
「別冊天満人 天神祭」(天満人の会)
「火と水の都市祭礼 天神祭」(大阪天満宮文化研究所編 思文閣出版)
「日本古典文学大系 西鶴集(下)」(岩波書店)
「日本古典文学大系 東海道中膝栗毛」(岩波書店)
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