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八軒家タイムトラベル 昭和二十年(一九四五年)八月十四日
大阪大空襲あの日あの時(3)

はたして数万人の従業員はどうなったのか―
狙いは造兵廠。
最後の大空襲は
なんと終戦の前日!

七月二十八日、米・英・華の三国は日本に無条件降伏するよう勧告する「ポツダム宣言」を発表。日本政府はこれを黙殺、水面下でソ連の和平工作へ期待します。しかしそれは徒労に終わります。八月六日には広島へ原爆投下、九日には長崎への原爆投下があり、さらにソ連が宣戦布告しました。

もはやポツダム宣言を受諾するか、あるいは壊滅を待つか。選択肢は二つしか残されていません。しかし和平派と徹底抗戦を主張する軍部が対立し、結論が出ないまま空しく時間が過ぎていました。

図1)
英・米・ソ三巨頭と外相たち(ウィキペディアより)。

和平派と抗戦派の軍部が衝突。
虚しく時間が過ぎてゆく

ようやく最終決断を行なう御前会議が開かれたのが九日の深夜午後十一時三十分。ポツダム宣言受諾が決定されたのは翌十日午前二時三十分でした。そして朝六時にはスウェーデン、スイスを通じて米・英・ソ・華の四国に電報で伝えられます。

連合軍からの回答は十二日。しかしこの回答をめぐって和平派と軍部が再度衝突し、閣議は紛糾を重ねます。クーデターの気運も濃くなっています。日本が降伏しないとみた米軍は十三日、東北・関東の諸都市へ空爆を行ないます。

ようやく最後の御前会議が開かれたのは十四日午前十時五十分。それは皇居内の防空壕で開かれました。連合軍の回答への賛否について閣僚が意見を述べた後、正午に天皇から降伏・終戦の聖断が下ります。玉音放送は翌十五日正午と決まりました。

なんと大阪で何度も
原爆投下の模擬演習が!

こうした政府の動きは国民にはまったく知らされていませんでした。そんな中、七月は二十四日、二十六日、二十九日に大阪へ空爆がありました。これらは広島への原爆投下の模擬演習だったと言われています。二十四日には谷町二丁目に一トン爆弾が投下されていますが、これが模擬爆弾だったのではないかと思われます。
さらに八月に入ってからは五日、八日に空爆。八日の爆撃は長崎の原爆投下の模擬演習として行なわれました。

図2)
原爆が投下された広島中心部から立ち上がるキノコ雲(朝日新聞社「写真が語る20世紀目撃者」より)。

そして降伏という天皇の聖断が下った八月十四日正午、ちょうどその頃に大阪に最後の空襲が行なわれたのです。
日本との和平交渉の最中になぜこうした爆撃が行なわれたのか。米軍の記録によるとやはり日本政府の回答の遅れが要因でした。
大阪上空より投下された米軍の爆撃予告ビラ(大阪砲兵工廠慰霊祭世話人会編「大阪砲兵工廠の八月十四日」より)。
今回のターゲットは陸軍造兵廠。サイパン島を飛び立ったB29百四十五機が午後一時過ぎからほぼ一時間にわたって合計七百トンの爆弾を集中投下したのです。

陸軍造兵廠は大阪本廠のほか枚方や播磨など六箇所に分廠を持つ巨大な兵器工場。一般工員のほか動員学生、女子挺身隊などを合わせて六万四千人が働いていました。大阪本廠は京橋門から玉造門に到る東側の地区、大阪城公園の杉山地区、市民広場などをふくむ合計一・一八平方キロという広大な工場でしたが、この最後の大空襲で二百発以上にも及ぶ一トン爆弾が投下され、完全に壊滅しました。

図3)
終戦前日米軍機の集中爆撃を受けて炎上する大阪砲兵工廠。硝煙の彼方に大阪城天守閣が見える(毎日新聞社「写真集なにわ今昔」より)。

造兵廠の従業員数万人へ
空襲直前に一斉退去命令

ただ当日の正午過ぎ、B29の襲来を察知していち早く退去命令が出されていたため、工場はほとんど破壊されましたが、死者は廠内に留まって防空の任務についていた三百余名のほかはほとんど犠牲者が出なかった模様です。
しかし造兵廠の各門から数万人に及ぶ従業員が一斉に廠外の防空壕へ退避する光景はすさまじいものだったといいます

それぞれ廠外のどの防空壕へ退避するかが指示されましたが、空にはもうB29の編隊が爆撃を始めています。そんな中を数万人が走って逃げたわけです。

爆撃は近接の京橋駅や森ノ宮にも加えられました。京橋駅ではこの爆撃で乗客二百数十名が死亡。空前の大惨事です。死者には造兵廠から京橋駅のガード下へ避難して直撃弾を受けた人も数多くおられました。明日が終戦だとも知らぬままに多くの方が亡くなったわけです。

図4)
大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑(大阪市城東区新喜多一丁目)。大阪城に近い京橋駅に一トン爆弾が直撃し、多くの方々が亡くなりました。その霊を弔おうと昭和二十二年八月十四日、森本栄一郎氏が自費で建立された慰霊碑です。

ちなみに度重なる空襲によって東区の人口は空襲前の十二%、九千人弱にまで減少しています(大阪市全体での残存率は三十八%)。

現在の大阪城公園一帯は
ほとんど陸軍関係の施設

大阪城内の市立博物館(二〇〇一年に閉館)は中部軍司令部。そのほか豊国神社や梅林、西の丸庭園などのあるところにはすべて司令部関係の建物や兵器倉庫が建ち並んでいました。百万平方メートル以上もある現在の大阪城公園の九割近くがそうした軍用施設で占められていたことになります。

図5)
大阪城は第四師団等の軍用地のため 全容を知れる写真は掲載不許可となった この写真もそのひとつで 昭和7年撮影のもの(毎日新聞社「写真集なにわ今昔」より)。

こうした陸軍関係の施設はもちろん、軍事施設でもあった大阪城へは当然数多くの焼夷弾や爆弾が大量に投下されました。京橋門や伏見櫓などは焼け落ち、石垣にも大小七十ヵ所もの被害を受けましたが、度重なる空襲、なかでもこの最後の第八次大空襲においても大阪城の天守閣は無事でした。

図6)
大阪砲兵工廠の跡地から見る大阪城天守閣 昭和27年撮影(毎日新聞社「写真集なにわ今昔」より)。

焼夷弾が降り注いで、銅葺きの屋根瓦などはかなりは破損したものの、本体は破壊をまぬがれています。コンクリート造りなのが幸いしたのです。しかし天守閣の西南部と東北部すれすれに一トン爆弾がそれぞれ投下され、周辺の石垣の一部を吹き飛ばしていますから、これが命中していたらひとたまりもなかっただろうと思われます。

大阪城だけでなく周辺の軍用施設も爆撃されましたが、こうした施設の要員たちは、いったいどこへ避難していたのでしょうか。

大阪城本丸の地下十五メートルに
巨大な防空壕があった!

あまり知られていませんが、実は昭和二十年一月頃、本丸内に巨大な防空壕築造が計画され、大阪近辺から徴用された市民らによってトンネル掘りが進められていました。全長三百メートルを越える大掛かりな仮設トンネルです。

まず桜門東側の空堀の石垣の一番底あたりをぶち抜き、そこから北へ向かって二メートル角で掘り進められます。掘ったあとは丸太と厚板で側壁と天井が固められていきました。

完成した防空壕は空堀の底から天守閣近くまで南北に直線で百三十メートル。これに東西に同じく二メートル角の支線がいくつも掘られ、それぞれ側溝などから斜めに下降する階段状の通路で繋がっていました。
防空壕の内部は土間にベンチが向かい合うかたちでずらりと並び、裸電球が灯っているというような簡素な造りですが、西端部にはコンクリート製の地下司令室がありました。

六月の大空襲の頃には完成していたようで、空襲警報のたびに司令部要員たちはこの防空壕に避難していました。本丸の地下十五メートルという深いところにこんな大規模な防空壕があったわけです(この防空壕は昭和二十五年に埋め戻されています)。

GHQ司令部は住友本社に。
大阪城も進駐軍が接収

大阪第八次大空襲の翌日の午前七時二十分より、ラジオには「正午に重大ニュースがある」との放送が繰り返し流れます。そして八月十五日正午、いわゆる玉音放送で、日本は連合軍に降伏し、ポツダム宣言を受諾することが告げられました。明治以来の大日本帝国はここに崩壊したのです。

図7)
焼け跡でラジオの前に正座し、敗戦を伝える玉音放送を聴く人たち(朝日新聞社「写真が語る20世紀目撃者」より)。

米国を中心とする連合軍は総司令部(GHQ)を設置。総司令官にはダグラス・マッカーサー元帥が着任。九月二十九日に連合国軍の大阪進駐が開始されます。進駐軍の司令部が住友本社(東区大川町)に置かれたほか、大川沿いや中之島などの各所が接収され、進駐軍の施設として使われることになりました。

さらには大阪城へ二十九日に進駐軍が入城。これ以降三年間にわたって駐留します。城内から進駐軍が撤去し、大阪城が市民の手に返還されたのは昭和二十三年八月二十五日のことでした。

図8)
砲兵工廠跡碑(大阪市中央区大阪城三番)。「砲兵工廠跡」と刻まれた高さ1・5m、幅2mの花崗岩の記念碑が大阪城ホールの南西側にある。この碑はもともと最も多くの犠牲者を出した第3旋盤工場跡に(ここからかなり東の方)従業員OBの親睦団体である大阪廠友会によって1959(昭和34)年に建てられたものである(「大阪市内で戦争と平和を考える」より)。

(平野)

参考資料
「続東区史第3巻」(大阪市東区史刊行委員会)
「続東区史 別巻」(大阪市東区史刊行委員会)
「大阪市戦災復興誌」(大阪市役所)
「大阪市史第7巻」(大阪市史編纂所)
「日本の歴史第25巻 太平洋戦争」(林茂著 中央公論社)
「大阪大空襲  大阪が壊滅した日  」(小山仁示著 東方出版)
「大阪大空襲」(大阪大空襲の体験を語る会編 大和書房)
「大阪砲兵工廠の研究」(三宅宏司著 思文閣出版)
「大阪砲兵工廠の八月十四日」(大阪砲兵工廠慰霊祭世話人会編 東方出版)
「写真集なにわ今昔」(毎日新聞社)
「写真が語る20世紀目撃者」(朝日新聞社)
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