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特集「懐徳堂」 〈船場商人による学問所革命〉(1)

「懐徳堂」誕生の時代背景―
浪華の商人たちが
「学問」に目覚めた時 。

国語の古文や日本史の教科書で、上田秋成という江戸時代の小説家の名を記憶されている方も多いだろう。代表作は「雨月物語」。

図1)
「上田秋成像」甲賀文麗筆・上田秋成賛
甲賀文麗による上田秋成の肖像(ウィキペディアより)。

「雨月物語」は、全五巻・全九篇からなる、幻想綺譚。
秋成ならではの、妖しくも優麗なる文章により、さまざまな妄執に囚われた亡霊や怨霊がアノ世とコノ世を往還し、世にも不思議な怪異譚が物語られる。

この作品はまさに近世を代表する読本(よみほん)であると同時に、後の時代、泉鏡花や谷崎潤一郎、三島由紀夫たちを魅了したことからも分かるように、「雨月物語」の出現は近世が近代の始まりでもあることを告げる「小説」の誕生であった。

因みに「雨月物語」は、小津安二郎、成瀬巳喜男とともに日本を代表する監督・溝口健二により映画化され、一九五三年ヴェネティア国際映画祭で、見事、銀獅子賞を受賞した。

図2)
「雨月物語」第四版の表紙
第四版は、幕末、大坂心斎橋、河内屋源七郎の出版。四つの版のなかで、一番残存冊数が多い。三冊組に構成されている(ウィキペディアより)。

上田秋成が、おそらく少年期か青年期に教えを受けたと言われる学校が、今回のテーマである「懐徳堂」という、大坂の中心・船場にあった学問所である。
秋成が生まれる十年前の享保九年(一七二四)、船場の有力商人たちにより創建された懐徳堂は、大坂都心部に設立された初の町人(商人)たちのための学問所であった。

この学問所の誕生は、幕府直轄の武士階級のための昌平坂学問所(寛政九年=一七九七)に先立つこと七十三年、緒方洪庵の蘭学塾・適塾(天保九年=一八三八)に先立つこと百十四年という、画期的先駆をなしていた。
しかし、なぜか現在では、昌平坂学問所や適塾の令名に比べ、その校名も業績も、あまり良くは知られていない。

浪華っ子・上田秋成が、晩年、
書きとめた懐徳堂への辛らつな「皮肉」

秋成は、晩年書き続けた 遺書 としても読める自伝的断章集「膽大小心録(たんだいしょうしんろく)」において、かつて恩義を受けたであろう懐徳堂に対して、次のような辛らつな「皮肉」を放つ 。

「大坂の学校とは潜上な名目、郷校でも過ぎた事よ。学舎(こうしゃ)というがあたり前じゃ。開師三宅石庵は王陽明の風な学士じゃが、篤実でしんせつでよかった故、富豪の者がよって学舎をたてて、すましましたことじゃ。」(※岩波書店刊「日本古典文学大系 上田秋成集」二六七頁。一部、現代表記に変更)

秋成のこの皮肉には、ちょっと注釈が要る。中国の儒者が礼についてまとめた「礼記(らいき)」によると、「学校」とは「国」にある(「国」を代表する)もので、「郷校」とは地方を代表する私学の意である。つまり、秋成は当時の懐徳堂を、今風に言うと、「コンテンツや人材が充実していないハコモノ」にしか過ぎないと、おちょくって(からかって)いるのである。

続けて、「膽大小心録」では、当時、全国的に名を馳せていた懐徳堂の儒者、中井竹山と、その弟の中井履軒も、徹底的な悪罵雑言の対象となる。
この上田秋成の傍若無人だが、しかし、どこか愛嬌のある屈折した批判は、一部は性格的なものなのだが、実は、さらに深いワケがあったのだ 。

米本位制から貨幣(金融)経済へー
幕藩体制のタガが緩み始めた江戸中期

その、秋成の懐徳堂批判のワケに言及する前に、まずは懐徳堂のような学問所や各藩の藩校が全国規模で数多く創設されるようになった時代の前夜を、ザックリとマクロな視点で見ておこう。

徳川幕府による幕藩体制の屋台骨は、各藩の石高を基本にした 米本位制 であった。各藩の歳入は石高に応じた年貢米であり、余った米を貨幣と交換することで、武家の生活に必要なものをそのお金で購入する。
そこで米を金に換える米市場が発達することとなった。
もちろん、その中心は 天下の台所 大坂堂島である。

元禄(一六八八〜一七〇三)以降急激に成長した、米をはじめとする多彩な食料品、さまざまな消費財やサービスの生産力の向上と、全国津々浦々に及んだ貨幣経済(貨幣を交換媒体にした市場メカニズム)は、宝永(一七〇四〜一七一〇)、正徳(一七一一?一七一五)、享保期(一七一六〜一七三五)の頃に至って、徐々に、幕藩体制の屋台骨である 米本位制 を揺るがせ始めた。
将軍たちや側近の官僚たちは、米ではなくお金(貨幣)を媒介にして絶えず変動する市場システムという経済構造の変化に対応できず、幕府財政の悪化や、諸藩の窮乏化、経済の不安定化などをくい止めることができなかった。

そうした状況の中、八代将軍徳川吉宗は、幕府、旗本、各藩を問わず徹底した倹約令や、年貢の増徴を断行した。
さらに、大名から米を上納させる代わりに参勤交代期間を短くする「上米(あげまい)の制」や、豊作・凶作に限らず一定の年貢を納めさせる「定免法」、「新田開発」などの増収施策を導入。吉宗はこれら一連の享保の改革により、幕府の財政を一時的にせよ立て直すことに成功した。

図3)
「徳川吉宗像」狩野忠信
幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八木将軍)と呼ばれていた。この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人となっている(ウィキペディアより)。

しかし、全国的な流通経路の整備と、経済全体の生産力がアップしたおかげで、江戸中期には、武士以外の「農・工・商」の生活水準も向上。多彩な消費財やサービスに対する需要が高まり、諸物価が高騰する状況となっていた。

ところがこうした状況下にもかかわらず、元禄期の有能な勘定奉行であった荻原重秀による貨幣改鋳以降、幕府は元文元年(一七三六)まで、貨幣改鋳により貨幣流通量を増加させる施策を講じなかった。
その結果、日本経済はとても奇妙なデフレ体質に陥ってしまった つまり、米価は下がるが、米以外の消費財やサービスの価格は上がるという現象を生み出したのだ。

石高が歳入である幕府や大名、給与である旗本や諸藩の武士にとって、米価安は所得減に直結する。しかし、武家の格式や体面を維持するためには、高騰する消費財やサービスの購入を止められない。そこで、彼らはこぞって、借金経営で財政を維持し始めたのである。その借金する相手は、三都(大坂・京都・江戸)の豪商たちであった。

しかし、繁栄する豪商たちを一瞬にして凍りつかせる、大きな事件が出来する。宝永二年(一七〇五)、米の仲買と両替商で財をなした大坂の豪商・淀屋三郎右衛門(五代目=廣當)が、その豪奢な生活を咎められ、闕所・所払い (財産没収・大坂追放)の処分を受けたのだ。

そもそも淀屋は家康時代から徳川家の覚えがめでたい豪商であった。しかし、幕府はもちろん、上方以西で淀屋に借金をしていない藩はないと言われるほどで、その金額も一大名が返済できる額を遥かに超えた巨額なものになっていた、という。つまり、淀屋の廃絶処分は、幕府と諸大名を財政的苦境から救済するために、幕府自らが公権力で強制執行したものであったと考えることができる。

図4)
「淀屋の屋敷跡」碑(大阪市中央区北浜四丁目)
淀屋廣當の父・第四代の淀屋重當の頃には、「屋敷の規模も、表は北浜(今の大川町)、裏は梶木町(今の北浜四丁目)、東は心斎橋筋、西は御堂筋にいたる広大なもの」(竹内誠「大系日本の歴史 江戸と大坂」)であったという。写真左の「淀屋の碑」は大阪北浜船場ラインオンズクラブ建立。

この事件は、江戸・大坂・京都の三都のみならず、巨額の大名貸をしている全国の豪商たちをも震撼させた。そして商人たちはその時、自らのアイデンティティ(社会における存在価値)をおそらく初めてリアルに自覚した。

それはまさに、「士農工商」という封建身分制の中でさげすまれ続けてきた商人たちが、自らの拠って立つ経営思想や商い道徳だけではなく、「一個の人間」として、より良く、かつ、より自由に生きられる「道」の探求  つまり、「学問」に目覚めた瞬間でもあった。
(千三屋)

■本稿を起こすにあたって、以下のご著書・サイトを参考にさせていただきました。記して、心より感謝申し上げます。恐縮ですが、敬称は割愛させていただきました。また、文責は、小生にあります。なお、上田秋成の古文の引用文は、読みやすさに配慮して、適宜現代表現に改めました。
参考資料
「丸山眞男講義録[第一冊] 日本政治思想史 一九四八」(東京大学出版会 一九九八)
 竹内誠「大系 日本の歴史 10 江戸と大坂」(小学館 一九八九)
 津田秀夫責任編集「図説 大阪府の歴史」(河出書房新社 一九九〇)
 中村幸彦校注「日本古典文学体系 上田秋成集」(岩波書店 一九五九)
「特別展観 没後二百年記念 上田秋成」展図録(京都国立博物館 二〇一〇)
「懐徳堂  近世大阪の学校  」展図録(大阪市立博物館 一九八六)
「懐徳堂  浪華の学問所」(懐徳堂友の会 一九九四)
 湯浅邦弘編著「懐徳堂事典」(大阪大学出版会 二〇〇一)
「懐徳堂を知るための本」(大阪大学大学院文学研究科「懐徳堂研究センター」編 二〇一〇)
宮川康子「自由学問都市 大坂 懐徳堂と日本的理性の誕生」(講談社 二〇〇二)
脇田修・岸田知子「懐徳堂とその人びと」(大阪大学出版会 一九九七)

参考サイト
WEB懐徳堂
懐徳堂記念会
大阪大学大学院文学研究科「懐徳堂研究センター」
岸田知子「近世大坂の学問 懐徳堂とその周辺」
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