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特集「懐徳堂」 〈船場商人による学問所革命〉(2)

「懐徳堂」創建へ―
船場の豪商のプライドが
創造した学問所。

戦国時代初期から石山本願寺の寺内町であった大坂は、物資が日本国中から一堂に会する中継地であった。
豊臣家滅亡以降は、その土地柄と水利の便を生かし、徐々に「城下町=軍事の町」から、米市場を中心に、あらゆる物資が集まり取引される巨大商業都市へ、有力商人たちが日本経済を動かすメガ金融都市へと変貌していった。

竹内誠「大系 日本の歴史 江戸と大坂」(八七頁 小学館 一九八九)によると、「大坂の人口は(中略)宝永六年(一七〇九)に三八万一六二六人、宝暦六年(一七五六)に四〇万九九八四人と増加を続けた。明和二年(一七六五)には四一万九八六三人となって最高に達する」。

この四十万人を超える人口の内、武士は五%以下だったと言われている。そう、まさに、大坂は、「商人が主人公の町」だったのだ。

商人としての才覚や存在価値に目覚め、
誇りを持つ、志のある豪商たちが出現

その、威勢の良い町人たちが跋扈する巨大都市・大坂で大きな経済力を持ち、先を見据えた有意の豪商たちが考えていたことは、以下のようなことだったと思える。

すなわち、幕藩体制の基盤である“米本位制”に固執して、貨幣経済の問題、つまり、実体経済と貨幣(金融)の関係を理解しようとしない武士階級、その頂点に立つ徳川幕府は、いずれ徐々に「首が回らなくなるであろう…」。どれくらい先になるか分からぬが、いずれ町人が、武家と拮抗する時代が訪れるだろう。その時のために、まずは、町人(商人)自らが、武士と同等か、それを凌駕する実学的、道徳的及び文化的教養を身につけ、次代に向けて、知的準備をすることが必要である。

むろん諸大名も財政悪化を看過していたわけではない。地域の産物で殖産興業や専売を行い、石高以上の経済力をつける藩が出始めた。また、有意の人材を育てるために、十八世紀後半から藩校が続々と設立されるようになった。

豪商たちが主体となって創建される懐徳堂という学問所が、 天下の台所 の中枢、堂島に誕生する前夜とは、このように、商人(町人)が自らの強力な経済力と才覚をセルフ・アイデンティファイ(自己認識)し、各商家の繁栄をさらに確かなものとするために「跡継ぎや、幹部、雇い人の人材育成」というニーズを持ち始めた時代であった。

五名の豪商「五同志」が、学主に
三宅石庵を迎えて誕生した懐徳堂

近世大坂の儒学は、五井持軒が淡路町などに開いた漢学塾に始まる。

持軒は大坂生まれで京都に出て、堀川で「古義堂」を主宰していた伊藤仁斎や、中村惕斎に儒学を学び、寛文十年(一六七〇)、三十歳のとき帰坂し、主に四書(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)を、町人たちにやさしく教える私塾を開いた。

一方、享保二年(一七一七)には大坂南部の平野郷に、町人のための郷学(ごうがく)である「含翠堂」が創設された(※郷学とは、藩や、地方の有志が創立した学校のこと)。
平野郷は、戦国時代から堺と並ぶ自治都市としての歴史をもった地域で、有力町衆が町を先導してきた。
学校の創建には、土橋友直をはじめとする有力七家の同士が出資。当初、この郷学は「老松堂」と呼ばれていたが、後に懐徳堂の学主(学長)となる儒者・三宅石庵により「含翠堂」と名づけられた。

図1)
「含翠堂跡」碑(大阪市平野区平野宮町二丁目)
含翠堂は、摂津国平野郷市町に 享保二年(一七一七)五月五日、土橋友直ら郷内好学の同志が創設した学校で、百五十余年間存続し、明治五年(一八七二)学制公布により閉校した。はじめは庭の老松にちなんで老松堂といったが、三宅萬年が范魯公の「鬱々含晩翠」の詩から採って含翠堂と改めた(梅津登「含翠堂碑文」=写真左より)。註:三宅萬年=三宅石庵。

「含翠堂」が五井持軒の漢学塾などと違う点は、その運営方法にあった。
七同士が資金を定期的に寄付し、基金をつくり、その資金の運用利子により学校経営が行なわれた。

また、教学内容も特定の学統にとらわれず、開かれた自由な学風が尊ばれ、それが「含翠堂」の伝統となった。
遠く江戸からは陽明学者の三輪執斎が、京からは「古義堂」の伊藤東涯(仁斎の嫡男)が、大坂市中からは三宅石庵や五井持軒が招かれ、講義をした。

図2)
「含翠堂東涯先生闢講延」秋里籬島著・竹原春朝斎図画
「摂津名所図会」巻一に所載(大阪市立図書館イメージ情報データベースより)。伊藤東涯は享保十二年と十八年の二度含翠堂に来講。いずれのときも「論語」と父仁斎の「童子問」を講義した(「懐徳堂 浪華の学問所」懐徳堂友の会・(財)懐徳堂記念会より)。

さて、お待たせしました。
いよいよ懐徳堂の出番である。
懐徳堂の前身は、京都に生まれ学問を積み、江戸に留学した儒者・三宅石庵が、元禄十三年(一七〇〇)、豪商たちの大店(おおだな)が軒を連ねる大坂・船場の尼崎町(現、大阪市中央区今橋)に開いた私塾だった。

この時すでに、後に懐徳堂を創建する「五同志」の内の三星屋武右衛門(中村睦峰)、道明寺屋吉左衛門(富永芳春)、舟橋屋四郎右衛門(長崎克之)などの豪商や、二代目学主(学長)となる中井甃庵などが門人となっていた。

その後、正徳三年(一七一三)に、三宅石庵は同じ船場の安土町に学舎を構え、塾名を「多松堂」と命名した。
さらにこの学舎は高麗橋へ移転する。その際に新たな門人として、備前屋吉兵衛(吉田盈枝)、鴻池又四郎(山中宋古)が加わり、初期「懐徳堂」の創建と運営に最も寄与することになる、五同志の面々がうち揃うこととなった。

ところが、前述したように享保二年(一七一七)五月、師の三宅石庵や大坂を代表する豪商の門人たちにとって、画期的なことが出来した。懐徳堂に先んじること七年、平野郷に町人のための学問所「含翠堂」が創設されたのだ。

三宅石庵も門人たちも、含翠堂の人々とかねてから交流があり、石庵自身もそこで教鞭をとったこともあった。
しかしながら、三宅石庵自身にとっても、また、門人である豪商たちにとっても、含翠堂に 先を越された という感は否めなかったのではなかろうか。
なぜなら彼らにとって、「大坂を代表する町人(商人)のための学校」は、当時、文字通り日本経済の中心となっていた、船場という都心の町にこそふさわしいと考えていたに違いないからである。

図3)
堂嶌穀糴糶(どうじまこめあきない)の図。「摂津名所図会」(秋里籬島著・竹原春朝斎図画)巻四に所載(大阪市立図書館イメージ情報データベースより)。

そして、いよいよ、彼らのその願いが叶う時が来た。
享保九年(一七二四)十一月、学主に三宅石庵を迎え、以前から門人であった五同志 三星屋武右衛門、道明寺屋吉左衛門、舟橋屋四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎の出資と土地・学舎の提供により、懐徳堂が誕生した。

場所は船場の尼崎町一丁目(現、中央区今橋三丁目)。
それは、まさに、江戸時代を通じて日本経済を支え続けた 天下の台所 の真っ只中に、商人(あきんど)の、商人による、商人ための学校が、初めて呱呱の声を上げた瞬間だった。

図4)
「懐徳堂幅」三宅石庵
この書は初め額にして懐徳堂の講堂に掲げられていたが、のちに刻額を造ってこれを玄関に掲げ、本書は掛幅に仕立てかえられることになったという(「懐徳堂ー浪華の学問所」懐徳堂友の会・(財)懐徳堂記念会より)。

図5)
懐徳堂旧阯碑(大阪市中央区今橋三丁目)
大正七年(一九一八)、懐徳堂の再興を目指して実現した重建懐徳堂(ちょうけんかいとくどう)の竣工を記念して、旧懐徳堂跡に造られた。昭和三十七年(一九六二)、日本生命本店ビルの新築時に、同ビルの南側壁面に移された。
(千三屋)

■本稿を起こすにあたって、以下のご著書・サイトを参考にさせていただきました。記して、心より感謝申し上げます。恐縮ですが、敬称は割愛させていただきました。また、文責は、小生にあります。
参考資料
「丸山眞男講義録[第一冊] 日本政治思想史 一九四八」(東京大学出版会 一九九八)
 竹内誠「大系 日本の歴史 10 江戸と大坂」(小学館 一九八九)
 津田秀夫責任編集「図説 大阪府の歴史」(河出書房新社 一九九〇)
 中村幸彦校注「日本古典文学体系 上田秋成集」(岩波書店 一九五九)
「特別展観 没後二百年記念 上田秋成」展図録(京都国立博物館 二〇一〇)
「懐徳堂  近世大阪の学校  」展図録(大阪市立博物館 一九八六)
「懐徳堂  浪華の学問所」(懐徳堂友の会 一九九四)
 湯浅邦弘編著「懐徳堂事典」(大阪大学出版会 二〇〇一)
「懐徳堂を知るための本」(大阪大学大学院文学研究科「懐徳堂研究センター」編 二〇一〇)
宮川康子「自由学問都市 大坂 懐徳堂と日本的理性の誕生」(講談社 二〇〇二)
脇田修・岸田知子「懐徳堂とその人びと」(大阪大学出版会 一九九七)

参考サイト
WEB懐徳堂
懐徳堂記念会
大阪大学大学院文学研究科「懐徳堂研究センター」
岸田知子「近世大坂の学問 懐徳堂とその周辺」
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