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八軒家タイムトラベル 昭和四十五年(一九七〇年)三月十四日~九月十三日

大阪万博開催!
八軒家かいわいの
企業はそのとき…

大阪万博(正式名称/日本万国博覧会)は昭和四十五年(一九七〇年)、大阪府の千里丘陵で開催されました。
「人類の進歩と調和」をテーマに、参加国は史上最高の七十七カ国。三月十四日に開会式、翌日から九月十三日までの百八十三日間、延べ六四二一万八七七〇人という史上最多の入場者を集めました(昨年の上海万博で記録は塗り替えられましたが)。

図1)
現在の太陽の塔(万博公園=二〇一一年三月撮影)

大阪の企業では松下電器(現パナソニック)や住友グループなどが出展しました。なかでも大川沿いに本社があるサントリーは酒類業界では唯一の単独出展。テーマは「生命(いのち)の水」。五階建てビルに相当する壁面へ映写するマルチスクリーンは見学者の度肝を抜きました。

いざなぎ景気も五年目
高度成長はどこまで続く?

昭和四十五年(一九七〇年)といえば、昭和四十年からの長期好況が続き、その経済成長が「東洋の奇跡」と世界で注目されていた頃。一ドル=三百六十円の為替レートも有利に働き、経済成長率は毎年十%を越え、日本はアメリカに次ぐ経済大国にのしあがります。このいざなぎ景気と呼ばれた好景気の真っ只中、大阪万博(正式名称/日本万国博覧会)が開幕したのです。

この万博へ向けた都市整備事業で、大阪市内の交通網ががらりと変わります。モータリゼーションの急速な進展を背景に、昭和四十四年(一九六九年)には大阪市電が、そして万博開催の四十五年にはトロリーバスもあいついで姿を消しました。
一方で地下鉄網が整備されます。谷町線、千日前線、中央線が相次いで開通・延長され、四十五年には御堂筋線と北大阪急行の乗り入れで新大阪と千里中央駅が結ばれました。この年、近鉄も上本町までだった路線を難波まで延長しています。

図2)
築港深江線と船場センタービル
築港深江線(中央大通)の船場地区は昭和四十五年三月に貫通した。道路中央に十棟の船場センタービルを建設し、ビルの上部に阪神高速道路と一般高架道路、地下に地下鉄中央線が走る構造となった(大阪都市協会「写真で見る大阪市100年」より)。

八軒家かいわいの
景観が様変わり

大阪城の城下町として形成されてきた大阪の町も、昭和八年(一九三三年)の御堂筋の完成以来、ビジネスセンターはそれまでの北浜・船場中心から御堂筋中心へと移行を始めます。戦争で一旦頓挫するものの、その後も梅田と難波を基点に、大動脈の御堂筋に沿って南北に経済界地図が再編成されてゆくことになります。そして万博を契機にした交通網の整備で、八軒家かいわいの景観もがらりと変わることになります。

では万博前後の八軒家かいわいの変貌ぶりを見ていきましょう。

昭和四十二年(一九六七年)三月、地下鉄二号線(谷町線)が天満橋に乗り入れ。翌四十三年には二号線の全線開通で天満橋が東梅田と結ばれました。松坂屋もこの年、一万平方メートル余りを増床して、売り場面積が三万平方メートルを越えました。
昭和三十八年(一九六三年)には京阪電鉄の淀屋橋への地下鉄が開通しました。その天満橋の旧駅の跡地(約二万平方メートル)に昭和四十四年(一九六九年)八月、今度は地下四階、地上二十二階建ての大阪マーチャンダイズマートビルが完成します。

図3)
天満かさね橋とOMMビル
天満橋の交差点をオーバーパスする全長四一〇mの高架橋を建設、昭和四十五年三月に完成した。南詰の大阪マーチャンダイズマート(OMM)、日本最初の卸センタービルとして前年の四十四年八月に完成オープンした(大阪都市協会「写真で見る大阪市100年」より)。

当時、谷町筋と土佐堀通が交差する天満橋南詰は、常に交通渋滞をきたしていました。それを解消しようとしたのが、従来の下部構造を生かしたまま高架橋を重ねるという天満橋立体交差橋です。「天満かさね橋」の愛称がつけられ、万博開催直前の三月に竣工しました。
これによって谷町筋をゆく車はノンストップで天満橋を渡れることになったわけです。当初は天満橋を拡幅するという計画もあったようですが、予算面からこの合理的な工法となりました。もしこれが実現していれば八軒家からの景観が保たれたのにと残念な思いが残ります。

その頃、元気だった
八軒家かいわいの企業は…

大阪の企業家は暮らしの中からビジネスのヒントをつかみ、それをすばやく商品化する才に長けています。大正期から昭和にかけて赤玉ポートワイン、クレパス、魔法瓶、おまけつきグリコ、カルピスなどといったアイデア商品を次々とヒットさせました。

戦後も関西発のイノベーションが続きます。即席ラーメン、プレハブ住宅、電卓、缶コーヒー、自動焦点一眼レフカメラなどなど。斬新なアイデアで次々と新しいビジネスを育ててきました。

では万博の頃の大阪の企業、なかでも八軒家かいわい、大川沿いの企業はどんな手を打っていたのでしょうか。当時へタイムトラベルして、天満橋から西へ順次見ていきましょう。

図4)
八軒家かいわい・大川沿い
「国土変遷アーカイブ」(国土地理院=一九七一年撮影)に着色して使用。建物の写真は現在(数字マウスオンで表示。下記解説順)。
①日本初の卸売りセンターの誕生!
天満橋南詰/大阪マーチャンダイズマート(OMM)
明治以降の商都大阪発展の原動力となったのが卸売業。なかでも関西五綿(丸紅・伊藤忠商事・日綿実業・東洋綿花・江商)と船場八社(又一・岩田商事・丸栄・田附・竹村綿業・竹中・豊島・八木)の「五綿八社」を中心とする繊維系卸売業と紡績業が商都大阪を引っ張っていたといえます。

昭和四十年代初め、大阪が全国の繊維業界に占めるシェアは四十四パーセント。江戸時代からのれんを守ってきた問屋街が船場を中心に形成されていました。ただ取引量が急激に増えたことで、道路交通はマヒ状態となり、市街地の過密化もすすんできます。成長率も東京に較べて大きく遅れをとってきました。立地条件の改善と卸売り機能の分化が緊急の課題となっていたのです。
そこで持ち上がってきたのがマーチャンダイズマート構想。いわゆる卸売りセンター(業者間で取引する卸問屋のセンター、常設見本市のこと)の設置です。当時卸売りセンターは日本で前例のない事業であり、すでに実績のあるアメリカやカナダへの視察なども実施され、研究が重ねられました。
船場の老舗意識や都心部で業種別に集中する方が繁栄につながるという根強い意見もあり紆余曲折しましたが、昭和四十二年(一九六七年)に起工、万博の前年、四十四年に華々しくオープンします。
船場地区の再開発としてはOMMのほか、昭和四十五年(一九七〇年)三月に船場センタービルがオープンすることになりました。
②フエルアルバムが大ヒット商品に!
北浜/ナカバヤシ株式会社
八軒家から土佐堀通りを少し西へいったところにあるのがナカバヤシ株式会社。大正十二年(一九二三年)創業の製本会社でしたが、昭和四十三年(一九六八年)に「フエルアルバム」という大ヒット商品を送り出します。
当時の写真アルバムは、台紙が綴じ込まれていますから「あと一枚あれば…」という融通がききません。それをビスで綴じるような方式に変えることによって実現したという製本職人ならではのアイデアでした。
高度成長時代を背景にレジャーもさかんとなりカメラブームも起こってきていました。アルバム需要の高まる中、まさにタイムリーな商品です。消費者から「こういうアルバムが欲しかった」と圧倒的な支持を受けることになりました。
③西日本の超高層ビルの一番乗り!
天神橋南詰/大林組
昭和六年(一九三一年)に竣工した大阪城天守閣の工事を請け負った大林組ですが、万博ではお祭り広場など主要施設を手がけています。そして、昭和四十八年(一九七三年)には西日本で最初の超高層ビル、地上三十階、地下三階の「大阪大林ビル」を竣工させ本社をこのビルへ移転させました(大林組は創業以来、奥村組・竹中工務店・錢高組・鴻池組と並び大阪に拠点を置いていましたが、平成二十二年、登記上本店を東京に移転しています)。
④道修町の薬品メーカーは海外へ!
北浜・栴檀木橋南詰/田辺三菱製薬
道修町は秀吉の大阪城築城の際に船場の一角に形成された薬の町。十七世紀の初めには百軒を越える薬種商がありました。現在、江戸時代創業の企業としては田辺製薬(現田辺三菱製薬)、小野薬品、武田製薬などがあります。
万博前後から製薬メーカーの海外進出がさかんとなりました。田辺製薬では万博前後に台湾、アメリカ、インドネシア、ベルギーなど着実にその海外戦略を展開していました。そして昭和四十年代後半からは田辺製薬はじめ、道修町の大手製薬メーカー各社は新薬開発でも実績を伸ばしてゆくことになります。
⑤新工法で住宅ブームを牽引!
大江橋北詰の東側/積水化学
子会社の積水ハウスがプレハブ業界を大きく成長させましたが、親会社だった積水化学でも新工法によるユニット住宅「セキスイハイム」を万博の年に発表、翌年に発売しました。工場で内装も仕上げたユニットを現場でクレーンで吊り上げて組み立てるというもの。建て替えでも入居まで四十日という快速施工が話題を呼び、短期間で驚異的なシェアを獲得してゆきました。
⑥「オールド」がモンスターブランドに!
渡辺橋北詰/サントリー
昭和三十五年(一九六〇年)、池田内閣は「所得倍増計画」を発表。三十九年(一九六四年)の東京オリンピックを契機に日本は高度経済成長の波に乗ります。庶民の暮しも洋風化し高級志向に弾みがついてきます。
高級ウィスキーだった「サントリーオールド」も「ダルマ」の愛称で親しまれるようになり、毎年需要を大幅に伸ばしていました。そんな中、万博の年に展開されたキャンペーンが「二本箸作戦」。オールドをバーだけでなく、寿司屋や日本料理店さらには家庭の晩酌でも飲んでもらおうというキャンペーンです。こうした提案でサントリーオールドはぐんぐん販売数を伸ばし、昭和四十九年(一九七四年)には五百万ケース、昭和五十三年にはなんと一千万ケースの大台に乗せたのです。

万博その後の状況と
オイルショック

さすがのいざなぎ景気も万博開催期間中の夏には下降線をたどります。景気後退のなか、万博の翌年八月にはニクソンショック、そして年末には為替レートが一ドル=三六十円から三百八円に円が切り上げられます。しかしながら景気刺激策の推進もあってその後、景気は回復、輸出も順調に伸びました。

昭和四十七年(一九七二年)七月、田中角栄内閣は「日本列島改造論」を打ち出し、土地投機が活発になり、物価は高騰を続けました。インフレは続きながらも景気上昇過程にありましたが、翌年十月、オイルショックが起こります。モノ不足感が蔓延し、投機が投機を生み、昭和四十八年(一九七三年)から四十九年の一年間で物価は二十六パーセントも上昇したのです。こうして「東洋の奇跡」といわれた高度経済成長の時代は幕を閉じることになります。
(平野)

参考資料
「大阪のまちづくりーきのう・今日・あす」(大阪市計画局刊)
「大阪市公文書館研究紀要第二十一号」(大阪市公文書館刊)
「続東区史 第二巻」(大阪市東区史刊行委員会)
「続東区史 第三巻」(同右)
「続東区史 別巻」(同右)
「新修大阪市史 第九巻」(新修大阪市史編纂委員会編)
「写真で見る大阪市100年」(大阪都市協会編集・発行)
「日々に新たにーサントリー百年史」(サントリー株式会社編)
「万博開封ータイムカプセルEXPO70と大阪万博」(大阪市立博物館)
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