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八軒家タイムトラベル 明治二年(一八六九年)五月一日

舎密局(せいみきょく)の教頭は
お雇い外国人、K・W・ハラタマ
―いよいよ日本初の本格的な化学教育が始まります

幕府は蘭学は認めはするものの、その翻訳や翻訳書の普及に関しては取締りを徹底していました。
しかしペリーの来航(一八五三年)以降、こうした蘭学への圧迫が様変わりします。幕末の内外情勢が不安定な中で、化学は火薬製造、大砲鋳造、産業発展などに不可欠な知識としてその重要性が急速に高まってきていました。幕府や諸藩は急速に西洋科学の受け入れをすすめました。

こうした背景の中で設けられたのが長崎の分析窮理所です。慶応二年(一八六六年)四月、理化学専任教師としてオランダの化学者ハラタマが招かれることになりました。三十四才、独身。母国に許嫁を残しての来日でした。翌五月から講義が始まっています。

図1)
K・W・ハラタマ博士像(大阪市中央区大手前三丁目)

講義はかなり本格的な実験教育を目指していました。当時の実験器具の図入り目録が残されていますが、五十九種二百五十点以上の器具が示されています。漏斗やフラスコをはじめピペットなど、一応の化学実験器具が揃っていました。

フラスコは欠け徳利、
漏斗は穴を開けた茶碗!

当時幕府は、江戸の開成所(外国情報の入手・翻訳などを行なう学問所)内に物理・化学専門の学校を設立することを決定していました。ハラタマは翌年の慶応三年(一八六七年)一月に開成所への赴任が決まり、船で江戸へ向かいます。

すでに開成所では川本幸民や宇都宮三郎などを教授陣に化学教育が行なわれていましたが、生徒はわずか四名。実験器具も、フラスコの代わりに欠け徳利を使ったり、茶碗の底に穴を開けて漏斗代わりにするといった有様でした。
このような貧弱な江戸の開成所内の化学所を、長崎の分析窮理所の設備とハラタマを移住させて再建しようとしたわけです。

図2)
宇都宮三郎とハラタマ(「大阪舎密局の史的展開」より)

しかし当時は維新の争乱の真っ只中。開成所の新理化学校の建築工事は遅々として進まず、ハラタマは無為のまま日を送ることになります。そして赴任した慶応三年十月には大政奉還、慶応四年に入ると一月に鳥羽伏見の戦い、四月には新政府軍が江戸に進攻してハラタマを招聘した幕府が崩壊してしまいます。ハラタマは江戸を逃れて横浜のオランダ領事宅へ身を寄せます。

大阪遷都ならず!
舎密局建設はどうなる

争乱がようやく落ち着いた六月、新政府は設立準備中だった開成所内理化学校を大阪へ移すことを決めます。これが大阪舎密局※です。ではなぜ江戸ではなく大阪だったのでしょうか。事情はつぎのようなものでした。
※舎密(せいみ)とはフランス語由来のオランダ語    の音訳で化学の意。舎密をセイミと読ませただけで漢字自体の意味はありません。

鳥羽の戦いに敗れ幕府の崩壊が決定的となった頃、大久保利通が大阪遷都を論じています。一時は大阪遷都の流れができたかに見えました。さらに慶応四年四月には明治天皇が大阪に行幸され、このとき大阪に病院を建てるよう御沙汰書が下されました。それに伴って病院・医学校に併存するカタチで開成所内理化学校の移設が決まったのです。

舎密局は大阪城の大手門から西に向かう大手通りの旧京橋口御定番屋敷跡に開設することに決まりました。現在の大阪府庁本館の南西向かい側あたりです(本町通に舎密局址の碑がありますが、これは間違い。実際の位置はひと筋北となります)。

図3)
「舎密局跡」大阪府史跡(大阪市中央区大手前三丁目)

こうして用地選定も終わり、明治元年(一八六八年)十月四日起工、工事は順調にすすみ、十一月には上棟式も終わります。翌年一月には完工の予定でした。
ところがその間、明治元年七月に大阪遷都案は見送りとなり、東京遷都が決まります。そして十月には明治天皇は京都から東京へ。維新政府は新首都建設などの政務多忙で舎密局建設の計画は宙に浮いてしまいました。

しかし何度にもわたった陳情の結果、ようやく工事にゴーサインが出ます。そして三月末にようやく竣工。ハラタマの居宅も舎密局の南側に設けられます。舎密局本館とは庭続きになった回廊を廻らせた瀟洒な平屋の洋館でした。

図4)
大阪舎密局の外観(「大阪舎密局の史的展開」より)

二百人を前にした
ハラタマの開校記念講演

さあ、いよいよ準備が整い、明治二年(一八六九年)五月一日、大阪舎密局は開校の日を迎えます(舎密局では校長職は設けられておらずハラタマが教頭を勤めました)。

午前十時、舎密局の階段教室となっていた講堂に大阪府知事、役人、各国領事、一般聴衆など約二百人の聴衆を前にハラタマの開校記念講演が始まります。その内容は東西の文明比較論に始まって、博物学と理学、化学、なかでも化学合成の研究の重要性などへとすすみます。
その後、ガリレイ、アルキメデス、ワットなどが発見した物理学の原理を説明、最後に文明開化にあたっては物理学・化学は不可欠の学問だと述べて講演を終えました。講演の内容は同時通訳で舎密局の日本人教授が行ないました(この記念講演は翌月には「大阪舎密局開講之説」として刊行されています)。

この講演のあった日の午後、記念撮影がおこなわれ(写真左)、そのあと外国領事も交えての西洋料理による祝賀の宴が開かれました。

図5)
大阪舎密局開校記念写真。前列右から二番目がハラタマ、中央はハラタマを推挙したオランダ医師ボードウィン(「大阪舎密局の史的展開」より)。

舎密局の授業は明治二年五月八日に始まりました。ハラタマの理化総論の講義を日本人教授が通訳するというカタチで行なわれています。教頭のハラタマのほか教授や職員が二十名ほどいましたが、開講当初は生徒数はなんと五名からのスタートでした。

聴講生の一人に
当時十七歳の高峰譲吉

開校の年の七月からは化学試験(演示実験)を開始。その後生徒が増加し、舎密局の南に開校された大阪医学校の生徒もハラタマの講義を聴講するようになりました。その中の一人が当時十七才だった高峰譲吉です。

医学生だった高峰は、明治六年、舎密局で聞いたハラタマの講義が契機になったのか、医学の道から転じて、東大工学部の前身である工部学校に入学し、化学の道を歩み出します。後年高峰による副腎ホルモンアドレナリンの結晶化や消化酵素タカジアスターゼの発見などの功績は、大阪舎密局でのハラタマとの出会いの賜物だと言ってもいいかもしれません。

ハラタマは受講生の中から数名選んで七人の助手を任命しました。有能な化学者を育てようという狙いです。この助手の中には、緒方洪庵の妻の甥にあたる飯沼春蔵など、適塾出身者の名も見られます。

助手の一人、村橋次郎はその後、舎密局の建物が転用された司薬所に入り、大阪衛生試験所で後進の指導に当たりました。そのなかにのちに昆布の旨み成分からグルタミン酸ナトリウムの分離に成功する池田菊苗がいます。この発見がわが国独特の味の素製造の基となりました。

図6)
「浪花百景之内セイミ局」長谷川貞信(大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」より)

舎密局の記録を見ると教育のほか、校外からのさまざまな分析の依頼にも応じて、それらの収益で財政を補っていたことがうかがえます。たとえば各種貨幣の分析、お菓子の着色料の有毒成分検査、滋賀県産出の石炭の分析などのほか竹生島の鳥の糞の分析など―。ハラタマも生野銀山の調査とか有馬温泉の分析などを行なったようです。

理学所から第三高等学校、
そして京都帝国大学へ

明治三年十月、舎密局は洋学校と合併して大阪開成所分局理学所となります。ハラタマの任期はこの年の十二月で満了し、いったん横浜に滞在したのち翌年五月、帰国の途につきます。

後任にはドイツ人の化学者ヘルマン・リッテルが招かれました。理学所でも舎密局と同じく理化学の専門教育がリッテルによって引き継がれてゆきました。午前八時から九時までが化学、十一時から十二時までが理学の講義。実験をまじえて行なう本格的なものでした。明治五年の天皇行幸の際の講義でも水の分解と合成、水素・塩素の化合などの化学実験などが行なわれています。

この頃、廃藩置県と併行して、中央集権的な教育政策が取られるようになります。明治五年七月には学制公布となり、翌月に大阪開成所は第四大学区第一中学と改められます。舎密局以来の理化学専門教育は終焉を迎え、以後総合的な高等教育の学校へと変わります。そして何回かの校名変更を経て、明治二十二年、京都へ移転。明治二十七年の旧制第三高等学校、明治三十年の京都帝国大学の設立へとつながってゆくことになるのです。
明治三年十月、舎密局は洋学校と合併して大阪開成所分局理学所となります。ハラタマの任期はこの年の十二月で満了し、いったん横浜に滞在したのち翌年五月、帰国の途につきます。

後任にはドイツ人の化学者ヘルマン・リッテルが招かれました。理学所でも舎密局と同じく理化学の専門教育がリッテルによって引き継がれてゆきました。午前八時から九時までが化学、十一時から十二時までが理学の講義。実験をまじえて行なう本格的なものでした。明治五年の天皇行幸の際の講義でも水の分解と合成、水素・塩素の化合などの化学実験などが行なわれています。

この頃、廃藩置県と併行して、中央集権的な教育政策が取られるようになります。明治五年七月には学制公布となり、翌月に大阪開成所は第四大学区第一中学と改められます。舎密局以来の理化学専門教育は終焉を迎え、以後総合的な高等教育の学校へと変わります。そして何回かの校名変更を経て、明治二十二年、京都へ移転。明治二十七年の旧制第三高等学校、明治三十年の京都帝国大学の設立へとつながってゆくことになるのです。
(平野)

参考資料
「大阪舎密局の史的展開―京都大学の源流―」(藤田英夫著 思文閣出版)
「オランダ人の見た幕末・明治の日本―化学者ハラタマ書簡集―」(芝 哲夫著 菜根出版)
「江戸の化学」(奥野久輝著 玉川出版部)
「日本の化学百年史」(日本化学会編 東京化学同人)
「明治の化学者」(広田鋼蔵著 東京化学同人)
「サムライ化学者 高峰博士」(北國新聞社編 時鐘舎)
「大阪舎密極の再発見」(菊池重郎著 『自然』一九七四年八月号より)
「続・大阪舎密局の再発見―蘭人教師ハラタマ住宅の追跡―」(菊池重郎著 『自然』一九七六年二月号より)
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