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特集「懐徳堂」 〈船場商人による学問所革命〉(3)

時代を先取りした
自由な気風をもつ
町人の学問所の成立

懐徳堂という私立の学問所は、浪華の五人の豪商が発起人となり、資財を提供することで誕生した学校であった。
この設立の経緯故に、懐徳堂は、本質的に、町人(商人)の、町人による、町人のための学問所として誕生した。 

大坂というと、銭勘定が判断基準となる「商いの町」という印象が強い。
しかし経済が栄え余剰資本の蓄積があったからこそ、浪華の都には、俳諧や浄瑠璃、歌舞伎、茶の湯、洒落本などの町人文化が栄え、風雅を楽しんだり、趣味が嵩じてそれを職業にする人々も出てきた。

さらに、こうした文化状況を支える出版のハードウェアとソフトウェア、流通システムが既に確立しており、町人たちも日本や中国の古典、その注釈書などを通じて、教養を深めることができるようになった。
そうした文化状況の中で、文化を支える教育を尊んだ上層町人たちが、その潤沢な資金を活用して、文化と教育をサポートする伝統が、この地に培われていった。

また、この「懐徳堂」の連載の二回目(「懐徳堂」ー創建へ)で述べたように、大坂という町は、町人の町で、武家はわずか五パーセント以下だったと言われている。
上層商人たちが日々接する武士は、幕府の役人や、各藩の国表より大坂の蔵屋敷に出向している武士で、教養も高かった。
お得意様である教養の高い武家と付き合っていくために商人たちには、遊芸や文芸、茶の湯などの風雅の趣味をはじめ、日本の古典や漢学などの知識も求められた。それ故に、大坂の商人たちは、商売のためにも教養や学問が必要だったのだ。

現代に至るまで継承された、懐徳堂創建の
原動力となった、大坂町人の好学のDNA

以上の諸々の経緯や状況が重なり、大坂には、好学の気風が強く、それ故、いち早く大坂南部の平野郷に含翠堂が創建され、その後、船場に懐徳堂、河内八尾に環山楼(命名は伊藤東涯)が、町人たちの手によって開学されることとなった。

さらに後には、橋本宗吉の蘭学塾・絲漢堂、緒方洪庵に蘭学を授けた中天游の思々斎塾、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎、手塚良仙(漫画家・手塚治虫の曽祖父)などが輩出する緒方洪庵の適塾など、洋学の学校も開設された。

こうした大坂の学校の特色は、その多くは町民が創建したのだが、しばらくすると、さまざまな身分の優秀な学生が全国から集まり、切磋琢磨して高度な学問を究める「公的な学校」という色合いを強くもつようになったことだ。
特に、二代目学主 中井甃庵の嫡男・中井竹山が学主となった時代には、懐徳堂は江戸の昌平坂学問所を凌ぐ学校として、全国にその令名を馳せることとなる。 

図1)
中井竹山肖像画
中井藍江筆、中井竹山賛。寛政十年(一七九八)正月十六日の初講の日の宴席で書画の競作が催され、その際、中井藍江が竹山の講義像を描いたもの(「懐徳堂ー浪華の学問所」より)。

懐徳堂は、設立二年後の享保十一年(一七二六)、幕府に願い出て、官許学問所となる。しかし、その設立経緯により、「進取の気象をもつ町人による学問所」という学風は受け継がれ、全国から多彩な身分の学生を受け入れた。それは、学問の世界において脱封建的な気風をつくり、懐徳堂の本質として長く継承されることとなった。

懐徳堂は明治二年(一八六九)に一旦閉校となるが、市民有志や大阪財界の協力により明治四十三年(一九一〇)に記念会が設立され、大正五年(一九一六)には、市民大学として重建懐徳堂が竣工し、復活する。

まさに、「学校は市民が創造するもの」という好学の精神のDNAは、江戸時代から近代に至るまで受け継がれ、国立大学でありながら、大阪大学の設立にも継承された。

図2)
重建懐徳堂
中井桐園の嫡子であった中井天生(木菟麻呂)は、懐徳堂の廃絶後もその復興を悲願としていた。また大阪朝日新聞の主筆であった西村天囚は優秀な漢学者でもあり、やはり懐徳堂の復興を祈念していた。主として天囚が大阪の財界や政界に働きかけて、大正五年(一九一六)に懐徳堂が再建された。これを江戸時代の懐徳堂と区別して重建(ちょうけん)懐徳堂と呼ぶ(ウィキペディアより)。

その意味で、同じ官許学問所と言っても、幕府の権力のもとで開設された江戸の昌平坂学問所とは、成立の経緯も学風も大きく異なっていたということを、強く指摘しておきたい。

昌平坂学問所は、もともと徳川家康から下賜された上野忍岡の土地に、林羅山が開いた儒学の私塾を、第五代将軍徳川綱吉が、幕府直轄の教学機関として設立した、真の意味での官許学問所であった。昌平坂学問所では学生は武士が多く、教学内容も、幕藩体制=封建身分体制にフィットした朱子学であった。

図3)
史跡湯島聖堂 昌平坂学問所
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄三年(一六九〇)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ百年を経た寛政九年(一七九七)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました(公益財団法人斯文会より)。

学問以前に、社会人として生きる作法を
教えた、商人=町人ならではの学問所の誕生

一方、三宅石庵が学主を務めた初期の懐徳堂では、学生は商家の子弟や雇われ人、つまり町人が中心だった。
ここで、初期の懐徳堂内の空気を垣間見るために再度、上田秋成翁にご登場願おう。彼は歯に衣着せず、『膽大小心録』で次のように語っている(※原文を現代的表現に改めました)。

「今の儒者は、翁が若い時の俳かいしにもおとった相場じゃ。今橋の学問所(※懐徳堂)、萬年先生(※三宅石庵)の時は、さして学問をさすではなしに、むすこを先あずけて、よい事を少しでも聞かす事のみ。又金づかいになりおると、さそくあずけておく也。先生かたく門を出さず、たばこ盆のそうじ、茶の給仕、羽折着せずにつかわれたで、心はつい改まる事じゃった。」

この文章の次の次の節でも秋成翁は想い出したように記している。
「儒者のこわくないように(※身を律しなく)成った事は、翁が生涯の中也。学問や詩文は下手でも、きっと聖人のけずり屑は見えた事じゃった」とー。

秋成の以上の文章から読み取れることは、初期の懐徳堂のミッションーそれは、懐徳堂を創建した「五同志」と呼ばれる豪商たちの要望であり、初代学主である三宅石庵の教育思想でもあった?とは、第一に、商家の青少年に、生活人や社会人としての「作法」を身体レヴェルでみっちり教え込み、その上で、広い視野に立って儒学やその他の学問を幅広く授けることにあったということだ。

このことは、三宅石庵が、当時、儒学の主流を成していたーつまり、幕藩体制の支配イデオロギーに転化された統治の学としての朱子学だけではなく、朱子を批判した陸象山の文集や、王陽明の唱えた陽明学をも、やさしく教えようとしていた事実が証左している。
明らかに、石庵にとっては、懐徳堂は単なる朱子学の知識のみを授ける私塾や学問所とは異なっていたのだ。

上田秋成は四歳の時に裕福な紙油商の養子になり、若い時には放蕩もしたらしい。秋成自身の先に引いた言葉を借りれば、おそらく、「金づかいになりおると、さそくあずけてお」かれた口だったのかもしれない。

彼の「自伝」と題された晩年の自筆本には「我わかき時は、文よむ事をしらず、ただ酒のまでもすみかをのらになして宿にはいぬ事也。父は物よく書きて、度々いましめたまえば、時々机にかかりて手習はじむ」と記されている。

秋成は、著述家としての活動を開始した頃の浮世草子『世間妾形気』(せけんてかけかたぎ)の序で、「いつしか浮浪子(のらもの ※遊び人)の中宿となりて(※遊興宿に泊まり歩いて)」と記しているが、あるいは、それに近い放蕩無頼を重ねたこともあったやもしれぬ。

図4)
世間妾形気(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より)

しかし、青年期のどこかの時点で、これじゃあダメだと悟ったのだろう。初めは養父から手習を受け、後に懐徳堂で学んだと考えられている。
むろんのこと、上田秋成が生まれたのは享保十九年(一七三四)で、三宅石庵が亡くなったのが享保十五年であることから、秋成が石庵の薫陶を受けたということはあり得ない。

秋成は、懐徳堂で教えていた儒者・五井蘭洲のことを「段々と世がかわって五井先生というがよい儒者じゃあって」(『膽大小心録』)と評価していることから、懐徳堂で蘭洲先生に学んだものと推測される。

大坂に儒学を広めた五井持軒の息子であった蘭洲は、初期の懐徳堂の講師であったが、一旦懐徳堂を離れ、江戸で勉学を積んだ後、元文五年(一七四〇)に帰坂。寛保三年(一七四三)には懐徳堂内に移り住み、本格的に教え始めた。これは、秋成九歳の時である。
秋成が懐徳堂で学んだとすれば、これ以降の少年期か、「放蕩無頼」の生活を経た後の青年期と推測される。石庵が亡くなってから十三年後ではあったが、社会や学びに対して身を処するところから始める学風は、懐徳堂内にまだ残っていた時だと思われる。
(千三屋)

■本稿を起こすにあたって、以下のご著書・サイトを参考にさせていただきました。記して、心より感謝申し上げます。恐縮ですが、敬称は割愛させていただきました。また、文責は、小生にあります。なお、上田秋成の古文の引用文は、読みやすさに配慮して、適宜現代表現に改めました。
参考資料
「上田秋成集」(日本古典文学大系 岩波書店 一九五九)
「上田秋成全集 第七巻 小説篇一」(中央公論新社 一九九〇)
「上田秋成全集 第九巻 随筆篇」(中央公論新社 一九九二)
「懐徳堂―近世大阪の学校」展図録(大阪市立博物館 一九八六)
「懐徳堂―浪華の学問所」(大阪大学出版会 一九九四)
脇田修・岸田知子著「懐徳堂の人びと」(大阪大学出版会 一九九七)
湯浅邦弘編著「懐徳堂事典」(大阪大学出版会 二〇〇一)

参考サイト
WEB懐徳堂
懐徳堂記念会
大阪大学大学院文学研究科「懐徳堂研究センター」
岸田知子「近世大坂の学問 懐徳堂とその周辺」
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