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八軒家タイムトラベル 推古十五年(六〇七年) 七月三日

遣隋使の
小野妹子って
どんな人?

小野妹子といえば聖徳太子や蘇我馬子と並んで有名な飛鳥時代の歴史的な人物の一人です。知らない人はいないでしょう。でも「どこの出身でどんな人物だったのか」「なぜ遣隋使に選ばれたのか」などと聞かれるとちょっと答えに詰まってしまいます。
今回はそんな「意外と知られていない、遣隋使とその時代」についてまとめてみました。さあ、あなたはどのくらいご存じだったでしょうか。

小野妹子が遣隋使へ
大抜擢された理由とは?

奈良の飛鳥に大和王朝が生まれ、仏教文化が花開いた、この飛鳥時代に中国の隋王朝への使節が派遣されました。この使節団長に抜擢されたのが小野妹子です。これはもうご存じの通りです。
妹子は滋賀県志賀町の豪族の出身(生没年は五八〇年前後から六四〇年前後までと思われます)。下級の官人でした。以降の遣唐使などの例を見ると、こうした使節の団長は、天皇の国書を持って行くわけですから、かなり高い冠位の者が選ばれます。異例の抜擢人事でした。

図1)
小野妹子墓
小野妹子墓は大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある(ウィキペディアより)。

ではなぜ彼が選ばれたのか。当時、琵琶湖畔の志賀の津は福井の敦賀と京都の木津を結ぶ、水運の要衝の地。高句麗と飛鳥とはこの南北のルートで結ばれていました。妹子の育った志賀町周辺には、最先端の学術を身につけた漢人が大勢いたのです。中国から百済に移住した人や中国の文化を体得した百済人たちが中央官人として赴任していました。そのほか高句麗から通商でやってきた人たちと接触する機会も多かったでしょう。

この地で妹子は幼い頃から漢人や高句麗人から儒教や仏教を学び、高い見識を身につけていました。中国語にも堪能だったはずです。こうした高い教養と語学力が評価されての抜擢だったのです。
さらに小野氏の琵琶湖における交易活動などを通じての船舶に関する知識もありました。製鉄関連での経済的な地盤もものをいったのかもしれません(志賀町には十ヵ所の製鉄関連遺跡が発見されています)。

飛鳥時代の国情や
国際情勢の動きは?

六世紀から七世紀の初めにかけて古代国家の骨格がようやく形成されてきました。欽明天皇のあと、皇位はその子である敏達に受け継がれましたが、その後は蘇我系の天皇が続きます。そして蘇我氏と物部氏の対立は物部守屋の死による物部氏の没落で蘇我氏の政治的優位が確立します。

しかしその後、皇位継承問題は混乱し、蘇我馬子による崇峻天皇の殺害にまで発展します。こうした混乱の中で、卓越した調整能力を持つ推古天皇(女帝)の即位が実現するのです。
この推古天皇のもと、蘇我馬子と廏戸王子(聖徳太子)が政治運営を主導していきます。彼らのもとで六〇三年に「冠位十二階」が制定され、翌年には「十七条憲法」が作られました。律令国家への道が着々とすすめられていったわけです。

図2)
「唐本御影」(木版複製)
聖徳太子及び二王子像として聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画(ウィキペディアより)。

遣隋使を派遣した目的、
そして妹子の任務とは?

前述のように、隋は水陸三十万の大軍で高句麗を攻撃。こうした状況下、急遽六〇〇年に百済の使節と同行するかたちで第一回遣隋使が派遣されます。しかしこのときは皇帝の煬帝への謁見もかなわず、門前払い。軽くあしらわれてしまいます。国交は開けませんでした。
そこで小野妹子の出番となります。第二回遣隋使です。もちろん目的は隋と対等なカタチでの国交の樹立です。六〇七年七月三日、第二次遣隋使は難波津を出発します。一行は途中百済王都に立ち寄り、百済の使節とともに隋へ向かいました。

隋の首都長安で小野妹子はあの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」ではじまる倭王の国書を呈出します。これはもう決死の思いだったに違いありません。隋の皇帝の煬帝は案の定、不快感をあらわにし、激怒します。しかし高句麗との戦のさなか、倭国との友好関係も築かないといけないということもあり、妹子らにお咎めはありませんでした。そして六〇八年三月十九日、はじめて煬帝の謁見を受けることに成功します。倭王への書簡も授けられました。

図3)
「煬帝」閻立平(ボストン美術館蔵)
煬帝は隋朝の第二代皇帝。煬帝は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる(ウィキペディアより)。

正式な国交を開くほか妹子には「隋代に復興し、国教化しつつある仏教について研究してくること」が命じられていました。遣隋使には数十人の学僧が随行し、仏教の吸収に勤めました。これが開花するのはこれらの留学僧が帰国した三十~四十年後。六百八十年~六百九十年ごろに護国仏教として国教化することになります。これは小野妹子の遣隋使の大きな成果の一つでした。
もう一つの任務は「隋の皇帝支配体制の理念である儒教の礼制を学んでくること」。これは礼制に詳しい裴世清が答礼使として来日したことで達成できました。妹子はこうした要請に見事に応えたわけです。

遣隋使が船出した難波津は
どこにあったのか?

当時の大阪湾は今の淀屋橋の少し西側あたりまで迫っていました。そこから住吉辺りまで天満砂洲が続いているという地形です。この砂洲は北の千里丘陵の方まで延びていました。砂洲と上町台地の内側は河内湖ですが、この天満砂州を掘削して五世紀末には堀江が開通。外洋と河内湖を結んでいました。

図4)
六~七世紀頃の大阪平野(海岸線・難波津の復元は日下雅義「河内平野の変化をたどる」より)。

この堀江の中央の南側にあったのが難波津(いまの高麗橋辺りという説が有力です)。瀬戸内の水上交通のターミナルであり、かつ河内湖を通って淀川・大和川によって内陸部に通じていました。
経済的・地理的に重要な位置を占めていた難波には古くから自然発生的に市が立っていました。米・麦・大豆・小豆・綿などのほか、瀬戸内の海産物や塩、クスリなどの生活必需品が売買されており、大和川の水運を利用して都へ運ばれていました。

遣隋使はどんなルートで
隋まで航海したのか?

遣隋使船に関する資料はまだ発見されていませんが、二十トンくらいの船だったのではないかと思われます。帆船です。この船に小野妹子以下三十名くらいが乗り込みました。
風待ちをしつつ瀬戸内海を西へ急ぎ、七月末には福岡の国府に到着。玄界灘へ向かいます。それから壱岐、対馬を経て朝鮮へ。巨済島の鶏龍山などを目指しての航海です。百済の首府扶餘に到着後、王宮の武王に謁見して、再び海へ。今度は高句麗の沿岸を北へ向かいます。

図5)
玄界灘は、九州の北西部に広がる海域である。大陸棚が広がり、対馬海流が流れて世界有数の漁場として知られる(ウィキペディアより)。

難波津を出て二ヶ月、ようやく中国の現在の山東省蓬莱あたりへ上陸します。あとは洛陽を経て隋の首都長安へ陸路で向かいました。

次は隋の皇帝への謁見を済ませたあとの帰路。今度は裴世清ら十三名の隋使と一緒です。途中百済へ立ち寄って六〇八年四月、福岡へ到着します。この知らせを受けて、難波津では迎隋館の建築をスタート。猛スピードの突貫工事です。歓迎準備も念入りにすすめられます。
さあいよいよ遣隋船が難波津へ到着です。飾船三十艘が鉦や太鼓で囃し立てながら迎えます。江口で一行はこの飾船に乗り換えて堀江を難波津の新築なった迎隋館へ向かいます。ところがこの難波津で妹子らは一ヵ月半も足止めをさせられてしまいます。次に説明する国書紛失事件の詮議のせいです。

百済で起こった
国書紛失事件とは?

妹子は隋の煬帝の国書を帰途、百済で盗まれたため奏上できないと難波で申し出ます。飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)の朝議ではその過失を責めて流刑を主張する意見が出されましたが、推古天皇は「隋使の耳に入るのはよくない」ということで赦しました。妹子の難波滞在が一ヵ月半に及んだのは、朝廷での論議が長引いたからだと思われます。

しかし同じ日本書紀で「小墾田宮に入った裴世清からの国書を受領した」とあります。これはどういうことでしょうか。裴世清が新たに書いたとも考えにくい。書紀編纂者が妹子を貶めようとしてでっちあげた事件でしょうか。そうだとすると難波での長逗留の理由が分りません。煬帝からの天皇への国書とは別に妹子に与えられた文書があり、それが紛失したのかもしれません。
ともかく詮議も終わり妹子らは都へ向かいます。海石榴市(つばいち。三輪山の南西にあった市)に飾馬七十五騎が用意されており、隋使らはこの馬に乗り小墾田宮に入ります。盛大な歓迎ぶりです(隋書には二百余騎により迎えられたとの記録が残っています。歓迎ぶりに驚いてずいぶん多い数に見えたのでしょう)。

小野妹子のその後は?
子孫にはどんな人が?

裴世清は推古天皇に謁見したあと、帰国の途につきました。このとき裴世清らを送って小野妹子たちも渡海しています。これが第三回の遣隋使です。六〇八年九月十一日に難波津を出発して隋へ向かいました。今回も高向玄理や僧旻など、留学生や留学僧が参加しています。こうした遣隋留学生や学問僧らの伝えた学問や情報がその後の大化の改新の新政府に多大な影響を与えたのです。
遣隋使での貢献を評価されて妹子は最終的に最高位の冠位を得、子孫も中央政界で活躍し、特に外交において重要な任を担いました。

小野氏は平安時代にも活躍しました。小野篁(八〇二―八五二)は妹子から数えて五代目。平安時代前期のすぐれた官僚でした。小野小町や小野道風は、この篁の孫に当たります。

図6)
「小野小町/青蓮院宮尊純親王」狩野探幽(金比羅宮宝物館「三十六歌仙額」より)

さらに、小野妹子は華道家元池坊の祖でもありました。「池坊由来記」によれば、妹子はのちに聖徳太子創建の六角堂に入堂。いまでも烏丸三条の近くにある「六角さん」の名で親しまれているお寺です。僧侶の住坊が池の畔にあったことから池坊と呼ばれていました。ここで朝夕、宝前に花を供えていたと伝えられています。以降、代々の宗匠によりいけばなの理論や花型が確立されていきました。
(平野)

参考資料
「古代の人物①日出づる国の誕生」(鎌田元一編 青文堂)
「古代の都1 飛鳥から藤原京へ」(木下正史・佐藤信編 吉川弘文館)
「遣隋使・遣唐使と住吉津」(住吉大社編 東方出版)
「難波宮と難波津の研究」(直木幸次郎著 吉川弘文館)
「大阪の歴史」(井上薫編 創元社)
「大阪の歴史と文化」(井上薫編 和泉書院)
「遣隋使 小野妹子」(志賀町編集・発行)
「小野妹子」(溝口逸夫著 サンブライト出版)
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