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特集「懐徳堂」 〈船場商人による学問所革命〉(4)

教学内容から
学則に至るまで、
町人にやさしい学問所の誕生。

懐徳堂は、初代学主として三宅石庵を迎え、学校の実務を統括する預り人に中井甃庵、講師として五井蘭洲、並河誠所、井上赤水(正臣 ※含翠堂の同志)という布陣でスタートした。

初期の授業の中心は、平日開講されていた「日講」という公開講義であった。内容は、儒学の中興の祖と言われる朱子(朱熹)が従来の儒教の基本文献をまとめた四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)、さらに、五経(「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」)を中心に講義がなされた。 

懐徳堂の主な出来事を年代順に記した「懐徳堂内事記」の享保十一年(一七二六。創建二年目、官許学問所となった年)十月の記録には、学主・三宅石庵が「論語」を講じたことや、主な日講は、四書、「書経」「詩経」「近思録」などであったことが記されている。

図1)
論孟首章講義
官許学問所としての懐徳堂の出発を飾った三宅石庵の記念講演の記録(「懐徳堂―浪華の学問所」より)

三宅石庵の講義は、まったく学問のない商人にも分かるように、噛み砕いたやさしい表現でなされた。しかし、教義内容のクォリティは落とさないというのが、石庵を中心とした、初期懐徳堂の授業スタンスであった。

その意味で、大坂の町人たちにとって、三宅石庵という人物は、教師として考えると理想的な人物だったのではないかと思われる。
もともと、彼は町人儒者の家に生まれた。幼少のみぎりより学問を好み、父親が町人にどのように学問を教えていたかをつぶさに見ていたと考えられる。
やがて彼は、江戸前期の大思想家・山崎闇斎の弟子三傑に数えられた浅見絅斎に師事して、朱子学を修めた。
しかし石庵は若い頃から、朱子学と対立する陽明学にも惹かれ、朱子学にこだわらず、幅広く知見を深め、ひたすら学問に没頭した。

朱子学だけにこだわらない、
町人のニーズにフィットした、
初期懐徳堂の講義内容

朱子学では、世界の究極的な本質を大極=「理」、陰と陽に揺れ動くこの世の動きを「気」と考えた。朱子は、居住まいを正した静かな心を「性」とし、「性」こそ「理」を究めることができると考えた。朱子学のコアな理論が、「性即理」と呼ばれる所以である。なお、心が「性」の状態から揺れ動くと、「情」が生まれ、それが激しくなると「欲」になる、と説かれた。

図2)
朱子像(ウィキペディアより)

ザックリとまとめると、朱子は、心を静かにしてこの世界の原理である「理」を求めるために外在的知識を積むことで、この世界や心の内なる「性」を究めることができると考えた。それが朱子学のベーシック・スタンスと言えるだろう。

この思想は、この世界の原理である「理」を求めるために、まず外在的なモノや事象、知識を、理知主義的・分析的に追究することを重視することから、国や社会の統治や行政を担う学として認められ、徐々に支配層に受け入れらていった。
朱子学は、元の時代から科挙試験に採用され、明の時代には、遂に国家教学となり、当初もっていた求道的側面は徐々に消えて行き、強固な支配イデオロギーとなっていった。

一方、朱子の同時代の思想家、陸象山は、朱子の「性即理」に対して、根底的な異論を持っていた。彼は、心とは善悪を併せ持つ、あるべくしてあるこの世、つまり「理」そのものであると考え、心の有り様をダイレクトに肯定した。
陸象山は、朱子のように心の状態を静かなる「性」と、揺れ動く「情」や「欲」とに分けることをせず、「心」そのものがイコール「理」、つまり、「心即理」である、と考えた。だから、陸象山の「理」は清濁併せ持つ世界である。
「心すなわちこの世界」というこの思想は、朱子に比べて、より唯心論的志向が強いと言えよう。 

明代の思想家・王陽明は、陸象山の「心即理」の考えを継承した。さらに、人が貴賎を問わず生まれながらに持つ「良知」を全面的・動的に行うことを「致良知」と考え、「知」(認識)と「行」(体験)は一体不可分であることを「知行合一」と考えた。   
また、人を含め世界の万物は元は一体であり、他者の苦しみは我の苦しみであり、それを癒し直そうとする行為こそ、人間が本来的に持つ「良知」による行動に他ならないとした。
そして、「良知」による行動こそが徳行を積むことであり、学問偏重に陥っていた官許の朱子学を強く批判した。

三宅石庵を師と仰ぎ、学問環境のみならず住居などの生活面をもサポートしてきた「五同志」の豪商たちや、その子弟、雇い人たち、また、初めて学問をする「街場」の生活者たちにとって、石庵の講義はとても人気が高かった。
しかし、彼の人気の秘密は、噛んで含めるように話す、分かりやすさや、座談の巧みさだけではなかった。

三宅石庵の人気の秘密は、世界の原理につながる外在的な知をまず求めて、人徳を高める朱子の学も講じたが、徳行(「良知」による行動)を優先することによっても人徳は高められるのだという、陸象山や陽明学の教えも、やさしく講じてくれたところにあった。

彼ら商人にとって、後者の思想の方が前者より、自らの日々の仕事や生き甲斐を有意義に考えうる思想であった。
なぜなら、江戸封建制の根幹である、士→農→工→商という身分序列の世界では、一貫して、「商」とは、右のものを左に移動(販売)するだけで、「何も生み出さないのに利益を得る卑しい身分である」と蔑まされてきたから、である。

要するに、石庵は、町人(商人)たちが生業とする仕事が社会にとってどのような意味をもっているのか、日々の仕事にいかに取り組めば徳行を積むことができるかなど、彼らが、まさに聞きたいと願っていたことを、諸学の「良いとこ取り」をして講じたのだ。このため、一部の儒者から、石庵の学問は「鵺(ぬえ)学問だ」と批判された。

「鵺」とは、平安時代後期から文献に現れ始めた伝説上の妖怪のことである。文献にもよるが、頭は猿で、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇などと叙述されている。石庵の学問は、この「なんでもあり」の怪物に比せられ、「世、石庵を呼んで、鵺学問と為す。此れ其の首(しゅ)は朱子、尾(王)は陽明、而して声は仁斎に似たるを謂うなり」と、皮肉られた。

しかし、朱子学だけにこだわらず朱子と対立する陸象山や王陽明についても教えた、三宅石庵の幅広い視野をもつ学問へのスタンスと教授スタイルは、次代の懐徳堂につながっていくという意味で大きな礎を築いたと考えられる。
次代の懐徳堂の世界では、封建身分制を超えるような自由闊達で批判精神旺盛な学問世界が築かれた。昌平坂学問所にはない自由な学問の場として名を馳せ、十八世紀後半の知識人のネットワーク空間として機能するようになる。

先着順着席や、
フレックスタイム制を想起させる、
自由な受講システム

さて、遅まきながら、懐徳堂の具体的な学校システムについて、言及しておこう。

授業料は、五節句ごとに、銀一匁か二匁。貧しい人は紙一折、筆一対でもよいとされた。授業料は最高でも年に銀十匁となるが、これは、中流の商人にとってそれほど重荷ではない額だったと言われている。

要するに、分相応に支払えばよい授業料で、より広い層に儒学の基本をやさしく教え、社会人として生きていくための「徳」を受講生たち一人ひとりの「懐(フトコロ)」に授ける─これが懐徳堂という学問所の根本的理念であった。(※なお、「懐」には「心に込めて思う」という意がある。)

また、日々の講義とは別に、「同志会」という勉強会が組織されていた。これは、日講のテクストとは異なる文献を専門的に講義する”ゼミ”のようなもので、三宅石庵は日講で教えている朱子学とは対立する陸象山の文集「象山集要」を講じた。
この同志会というシステムは第三学主の三宅春楼の頃には一時休止状態となる。しかし、懐徳堂の中興の祖ともいうべき中井竹山(中井甃庵の嫡男)の時に再興された。
同志会は、懐徳堂がより洗練された高度な学問研究の場となる基盤を築いたという意味で、重要な講義システムであり、それが、懐徳堂の初期から始まっていたことに注目したい。

宝暦八年(一七五八)、第三学主となった三宅春楼の時には、講義スタイルがよりフレキシブルになり、町人たちにとってはさらに受講のしやすいものとなった。
三宅春楼は初の講義で「大学」を講じ、以後、四と九の付く日に「大学」の夜講が行われた。また、五井蘭洲も同年、「易伝」(「易経」の注釈書)の講義を契機に、二と七の付く日に「易伝」の朝講を行うようになった。これは学生が町人中心なので、家業に就いている昼間を避けたわけである。

図3)
懐徳堂四書『大学』編
中井履軒の著『大学雑議』(だいがくざつぎ)は、朱子の『大学章句』をもとにした『大学』注釈書です。ただ、履軒は、朱子の章句にそのまま従って注釈を施しているわけではありません。個々の語句はもとより、本文配列そのものにも、大きな修正を加えています(「WEB懐徳堂」より)。

ところで、懐徳堂の玄関の壁には、この学問所は町人が創建した学校であることを如実に証するものとして、受講規則を述べた次の定書が、その開設時より、架けられていた。
曰く─
「一、学問は忠孝を尽し職業を勤むる等之上に有之事にて候、講釈も唯右之趣を説すゝむる義に候へば、書物不持人も聴聞くるしかるまじく候事。但不叶用事出来候はゞ、講釈半にも退出可有之候」
「一、武家方は可為上座事。但講釈始り候後出席候はゞ、其の差別有之まじく候」

つまり、学問は、主従の忠孝や自分の職分を果たすためにするものであり、本校の講義もその趣旨を教授するものである。四書、五経の本を持っていない人でも結構、不意の用事でやむなく中座するのも結構。武家は一応上座に座るが、一旦講義が始まれば、身分に関係なく来校した順番に座って良し、ということである。
まさに、懐徳堂は、日々仕事をもち、書籍を買う余裕のない庶民にも配慮された、開かれた学校として運営がなされた。

日講のスタイルを変革した三宅春楼と預かり人中井竹山は、その際に、この定書をさらに革新する。
すなわち、正式入門がなくても講義を聴講できること、席順については貴賎貧富の差別をなくし、新旧、長幼、学問の深浅によって互いに譲りあうことなどの改定が行われた。
こうした改革は、封建身分制を超えた、公的な学問研究の場としての「次代の懐徳堂」を、徐々に生み出すことになる。
そして、この進化した懐徳堂空間から、江戸・京・大坂の学問界を席巻していた朱子学批判の急先鋒・荻生徂徠学を、ラディカルに批判する思想家たちが輩出する。
(千三屋)

■本稿を起こすにあたりまして、以下のご著書・サイトを参考にさせていただきました。記して、心より感謝申し上げます。恐縮ですが、敬称は割愛させていただきました。また、文責は、小生にあります。
参考資料
島田虔次著「朱子学と陽明学」(岩波書店 一九六七)
荒木見悟著「朱子学の哲学的性格―日本儒学解明のための視点設定―」
 (岩波書店 日本思想大系三十四「貝原益軒/室鳩巣」所収 一九七〇)
加地伸行著「儒教とは何か」(中央公論社 一九九〇)
「懐徳堂―近世大阪の学校」展図録(大阪市立博物館 一九八六)
「懐徳堂―浪華の学問所」(大阪大学出版会 一九九四)
脇田修・岸田知子著「懐徳堂の人びと」(大阪大学出版会 一九九七)
湯浅邦弘編著「懐徳堂事典」(大阪大学出版会 二〇〇一)

参考サイト
WEB懐徳堂
懐徳堂記念会
大阪大学大学院文学研究科「懐徳堂研究センター」
岸田知子「近世大坂の学問 懐徳堂とその周辺」
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