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八軒家タイムトラベル=昭和二十五年(一九五〇年)九月三日
ジェーン台風の高潮で
大阪市西部一帯が
一面の海になった!


 昭和二十五年(一九五〇年)八月二十七日、硫黄島東方海上に発生した弱い低気圧は発達しながら北西へと進みます。九月二日には高知の南方五五〇キロの海上に達し、中心気圧九四〇ミリバール、最大風速は五十五メートルまでになります。アメリカ流にジェーン台風と命名された、この大型台風は三日午前四時頃から進路を北北東に変えて、大阪湾を目指します。

図1)
↑九月三日午前九時の天気図(気象庁)

 大阪での最大風速は四十四メートル。室戸台風の六十メートルと較べると風速は下回りますが、暴風雨がなんと室戸台風時の二倍の七時間という長きにわたったため甚大な被害が出ました。戦後の焼け野原に建ったバラック住宅などはひとたまりもなく吹き飛ばされてゆきます。

 ではここで本題に入る前に例によって大急ぎで敗戦からこの日までの八軒家かいわいの状況を大急ぎで見てゆきましょう。

占領下の
八軒家かいわい

 日本は昭和二十年(一九四五年)の敗戦から昭和二十七年(一九五二年)四月二十八日の講和条約発効までの七年間近く、連合軍の占領下にありました。関西への進駐は九月二十五日、和歌浦湾からの上陸により開始されました。大阪湾から上陸しなかったのは、まだ瀬戸内海の機雷が取り除かれていなかったからです。

 大阪に駐留したアメリカ軍兵士は府下一万人以上。その大半が八軒家かいわいの接収されたビルに配属されていました。宿舎用として一般家屋も接収の対象となり、高級住宅の多い阿倍野区、住吉区が対象となりました。

 ビルの接収は、戦火をまぬがれた鉄筋建物の多い東区と北区に集中。司令部となった北浜の住友本社ビルのほか、天神橋南詰の貯金局ビル、中之島の新大阪ホテル、朝日ビル、御堂筋では安田ビル、ガスビルなどのほか心斎橋のそごうも接収されました。そごうにはPX(占領軍向け物品販売所)および娯楽施設としてボーリング場やローラースケート場が設けられました。

八軒家の東の廃墟に
アパッチ族が出没

 旧陸軍砲兵工廠は、いまのOBP周辺から大阪城公園一体にありました。なんとその広さは三十五万六千五百坪。工場の建坪だけでも十二万坪。日本最大の兵器工場だったのです。製品は薬莢、弾丸、小銃に始まって大砲、戦車、軍用車輌まで。敗戦の日の前日、昭和二十年八月十四日の大阪大空襲によって、この砲兵工廠は潰滅しました。そこに残されたのは鉄の散乱する巨大な廃墟でした。

 戦後、この廃墟はアメリカ軍に接収され、使用可能兵器や資材が処理されましたが、それでもなお莫大な量の鉄のスクラップが残されたままだったのです。三メートル以上にも伸びた雑草が生い茂る中、野犬が徘徊する、一度足を踏み入れたら二度と帰ってこれないと言われた魔窟。そこへ出没したのが屑鉄泥棒の群れ、世にいうアパッチ族でした。彼らは、警察学校や府警本部がすぐ目の前にあるこのコンクリートと煉瓦、鉄骨の瓦礫の山となった廃墟に出没し、夜な夜な警備の目をかすめては屑鉄をあさっていたのです。

図2)
↑廃墟の大阪砲兵工廠跡(「写真で見る大阪市100年」大阪都市協会編より)

 芥川賞作家・開高健の小説「日本三文オペラ」が当時の状況を伝えています。アパッチの一員になったフクスケが主人公の物語です(小松左京にはアパッチ族をモチーフにしたSF「日本アパッチ族」があります)。
 都市の真ん中に、このアパッチ族が跋扈する、広大で荒涼とした敗戦の記憶を抱え込んだまま大阪は復興へと歩み始めるのです。

闇市が市内に
なんと40ヵ所も!

 大阪では敗戦直後の九月頃から、大阪駅前や阿倍野、鶴橋などのターミナルに、闇市が生まれ、やがてお初天神境内や天神橋六丁目などにも大きな市場ができていきます。さらに、翌二十一年の初めには市内四十ヵ所に闇市が誕生し、その商人の数も十万人に達するようになりました。

図3)
↑梅田の闇市(「写真で見る大阪市100年」大阪都市協会編より)

 そこで売られるものは公定価格の数倍から数十倍で取り引きされ、一般市民は食糧購入のため、持ち合わせの衣服を一枚一枚脱いで売り買いするといった「タケノコ生活」を余儀なくされました。

 闇市では公道、私有地を問わず、地主の承諾なしにバラックや店舗が建てられ、地主とのトラブルも絶えません。そんな混乱の中、大阪府では社会秩序の混乱を収拾するため、二十一年八月に闇市閉鎖を断行します。とはいえ、すぐに食糧事情が好転するわけもなく市民の窮乏生活が続いていました。

朝鮮戦争勃発。
景気も上向きに

 昭和二十二年、天皇陛下の関西行幸。占領軍総司令部から貿易再開許可も出て、商都大阪の復興熱がいやが上にも高まります。翌二十三年には道頓堀や法善寺横丁の正弁丹吾亭、おたふく、二鶴などが復活し、四十軒あまりが営業するまでになりました。心斎橋もバラックながらも商店が軒を並べるようになりました。料理店や飲食店が復興に先頭を切って立ち上がったのです。
 二十四年からは食糧事情もややよくなり、翌二十五年には衣料品などの生産力回復もあって手に入りやすくなってゆきました。

 昭和二十五年(一九五〇年)六月二十五日、三年間にわたって朝鮮全土を荒廃させることになる朝鮮戦争が勃発します。

図4)
↑仁川上陸後にソウルで戦う国連軍兵士(ウィキペディアより)

日本はアメリカ軍が戦争に要する物資やサービスの重要な供給基地となります。いわゆる朝鮮戦争特需です。大阪の物資特需額は全国のおよそ四分の一、二百億円近くにのぼりました。これは当時の大阪の工業生産額の七パーセントに相当します。輸出も急増、経済が一気に活性化してゆきます(後述のジェーン台風の打撃があったにもかかわらず、その後も景気は上昇を続けます)。

ジェーン台風、
そして高潮が襲う!

 昭和二十五年九月三日午前八時に室戸岬を通過したジェーン台風は、進路を北北東にとり午前十一時に淡路島に上陸、その後神戸東部を北北東に向かいます。京阪神地方にとっては最悪のコースです。大阪での最大風速は四十四メートルに達しました。

図5)
↑ジェーン台風進路図(大阪市総務局行政部公文書館)

 被害は大阪市内だけでも全壊家屋五〇二一戸、流失七三一戸、半壊三万九六七六戸、死亡行方不明二二二人、重軽傷一万八五七三人。罹災者数は五十四万三〇九五人にものぼりました(大阪市 十月三十一日調べ)。実際にはこれよりはるかに被害は大きかったとみられます。

 では具体的な大阪市内の当日の模様を以下、九月四日の毎日新聞などで再現してみましょう。

 暴風雨が続く中、南の空が不気味にピンク色に変わったと思うやこれまで吹き荒んでいた東の風がぐるりと向きを変え、地軸を揺らすような南西の風が大阪全市をかきまわし始めます。台風の中心がやってきたのです。

 堂島川では溢れた水で阪大病院の廊下が浸水しました。中之島の牡蠣船も岸に打ち上げられています。大阪駅のプラットホームの屋根も吹き飛びました。上六交叉点では商店数戸が数回ぐらりぐらりとゆれたと思った瞬間、ガラガラと崩れ落ちました。

 御堂筋のイチョウや土佐堀川沿いの柳がなぎ倒されてゆきます。焼け跡の街に建てられたバラックのほとんどが風で持ち上げられ、地上へ叩きつけられています。屋根瓦は空高く飛び、看板も舞い上がって地上へ落下してきます。北浜や船場のビル街の窓ガラスが割れて砕け散ります。

図6)
↑なぎ倒された電柱(「ジェーン台風記録写真」大阪市立図書館より)。

 心斎橋ではネオン灯や看板が飛ばされています。土砂崩れなどで国鉄、私鉄、市電や地下鉄も交通機関はすべて運行不能に。電話線も寸断されました。
 午後二時頃、四天王寺の金堂が強風にあおられて大音響とともに倒壊。逃げ遅れた参詣人二人が生き埋めになり一人が亡くなりました。

なんと市内の家屋の
1/3以上が浸水

 九四〇ミリバールと気圧が低かったこと。加えて神戸上陸後、強烈な南風が吹き寄せたことで大阪湾一帯を高潮が襲いました。潮位は午後一時頃から急速に上がって、三・五メートルで計測不能、推定で四・五を越えたのではないかと思われます。満潮の潮位よりも二・四メートル高かったことになります。

 高潮は防潮堤を溢れ、海水と入り混じった川は堤防を決壊し、土手を越えて西大阪一帯へ猛烈な勢いで流れ込みます。床上浸水八万一七〇五戸、床下浸水二万七八三八戸。市内全家屋のじつに三七%が氾濫した川の被害を蒙ったことになります。

図7)
↑大正区小林町附近(「ジェーン台風記録写真」大阪市立図書館より)。

 大阪湾に注ぐ各河川では白波を立ててグングン高潮が逆流していきます。西区の境川から大阪港間の街は河川から溢れ出た濁水が家屋に流れ込み、住民は二階や屋根に上がり風に吹き飛ばされまいとふとんをかぶってしがみついています。戸板やにわか造りの筏に子供や女性をのせて、首まで濁流に浸かりながら水中を逃げ惑う人もいます。呆然とたらいに乗っている人も見えます。鶏や豚などの家畜が水死して流れていきます。

図8)
↑離れ島から必死の脱出(「ジェーン台風記録写真」大阪市立図書館より)。

 西淀川区から住吉区まで十区、五十六平方キロ以上が浸水しました。これは市の面積の1/3に当たります。なかでも西淀川区、此花区、港区、大正区では浸水深さが二メートルにおよび、被災後一週間たってもまだ十三平方キロが浸水したままでした。

図9)
↑潮の中から衣類を探す罹災者(「ジェーン台風記録写真」大阪市立図書館より)。

 昭和に入ってから大阪市の西部は一〜二メートルも地盤が低下していました。これが高潮被害をさらに大きくしたと言えるでしょう。

ジェーン台風後の
災害対策事業は…

 災害直後から「今度こそ大阪に抜本的な高潮対策を」という気運が高まり、総額二百二十一億円の「西大阪高潮対策事業」がスタートします。内容は恒久防潮堤の延長、盛土による土地のかさ上げ、河川の整理と浚渫などでした。

 こうした対策事業のもと、昭和二十年代後半から三十年代、そして四十年代と、大阪市内の堀川は次々と埋め立てられ、姿を消してゆきました。ジェーン台風による高潮被害が加速をつけたといえます。さらにそれを昭和三十六年(一九六一年)の第二室戸台風が後押しします。防潮堤の工事は遅々として進まない。それなら川を埋めてしまえという声が広がっていったのです。

図10)
↑防潮堤のかさ上げ工事
中之島二丁目¬、堂島川左岸(「写真で見る大阪市100年」大阪都市協会編より)。

 江戸堀川、京町堀川、立売堀川などに始まって猫間川、中之島掘割、鯰江川、長堀川などが次々と埋め立てられてゆきました。大阪が失った川の総延長は昭和年間だけでも六万八千メートル以上、面積にして一三七万平方メートルにもなります。

 しかし川の氾濫は台風や高潮が原因だけではなかったのです。それは大阪の地盤沈下が大きく影響していました。

地盤沈下の大阪は
これからどうなる?

 昭和初期以来、なんと大阪は三メートルも地盤沈下していました。原因は地下水の過剰な使用でした。工業用水として地下水を無制限に使っていたことがその要因です。その証拠に昭和十九年から二十一年まで工場がほとんど稼動していなかった終戦前後の三年間にはほとんど沈下が見られません。

 しかし昭和二十五年頃ようやく復興体制が整い、朝鮮戦争の特需もあって経済発展が進むにつれてふたたび大阪の地盤沈下が始まります。昭和三十七、八年頃に本格的な工業用地下水汲み上げ規制が行なわれるまで、年七、八センチと言う地盤沈下が続いたのです。

 船場の堀川は片っ端から埋め立てられ、長堀川は、地上は道路、地下は駐車場となってしまいました。そして中之島は地盤沈下のため、高い防潮堤が築かれ、道行く人から川面が見えなくなります。大阪を象徴する美しい大川の景観はこうして失われてゆきました。中之島には高層ビルが次々と建ち、ビルの冷房用水の汲み上げが原因とみられる地盤沈下がさらに進んでいきます。

 大阪市内で残された堀川は東横堀川と道頓堀川のみ。水の都大阪はその面影をすっかり失くしてしまいました。大阪の地盤低下は、埋め立てられた数多くの川たちの怨念なのかもしれません。

図11)
↑水防碑(浪速区幸町二丁目)
災害は忘れたころにやってくる(昭和五十四年建立=大阪市)。

(平野)

(参考文献)
「ジェーン台風誌要」(大阪府)
「ジェーン台風による風水害に関する世論調査」(総理府国立世論調査所)
「新修 大阪市史第八巻」(新修大阪市史編纂委員会編 大阪市)
「消費者の戦後史(闇市から主婦の時代へ)」(原山浩介著 日本経済評論社)
「大阪近代史話」(「大阪の歴史」研究会編 東方出版)
「大阪の曲がり角」(木津川計著 東方出版)
「わたしの大阪」(小松左京著 中公文庫)
「占領下の大阪」(三輪泰史著 松籟社)
「図説 昭和の歴史9占領時代」(袖井林二郎著 集英社)
「昭和二万日の全記録 第八巻 占領下の民主主義」(講談社編 講談社)
「日本三文オペラ」(開高健著 新潮文庫)
「日本アパッチ族」(小松左京著 光文社文庫)
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