八軒家タイムトラベル=寛政十年(一七九八年)十一月二十六日
江戸の官学に負けるな!
町人学者橋本宗吉の誕生で
浪花の町は蘭学ブームに
町人学者橋本宗吉の誕生で
浪花の町は蘭学ブームに
寛政十年(一七九八年)十一月二十六日、大槻玄沢の家塾、芝蘭堂に江戸の蘭学者たちが集ってオランダ正月を祝う会(新元会)が行なわれていました(オランダ正月とは太陽暦の元旦のこと)。もちろん玄沢の師である前野良沢や杉田玄白も同席しています。
蘭学とはオランダ語の原書を直接解読して、西洋の学問や技術の研究をしたり、これを紹介することを言います。その大きな成果の一つである「解体新書」が世に出てから二十五年経っていました。
この席で座興に配られたのが左の「蘭学者見立番付」。年寄として前野良沢、杉田玄白、勧進元が大槻玄沢となっているのは当然として、西方の小結に橋本宗吉の名が見えます。彼が今回の主役です。大阪の傘職人の息子だった橋本宗吉がなぜ若くして蘭学者番付の上位に並ぶことになったのか—。今回はそのあたりの事情と当時の大坂での蘭学事情へタイムトラベルしてみましょう。
図1)
「蘭学者見立番付」津山藩主松平斉民の残した『芸海余波』という貼込帖(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)より。西方前頭六枚目に司馬江漢がいる。これを見ても当時、江戸の蘭学者たちから橋本宗吉が大いに注目され、かつ評価が高かったことが分る。
大坂の蘭学は
天文学から始まった
天文学から始まった
江戸時代中期の天明年間(一七八〇年代)、大槻玄沢や前野良沢らが輩出し、蘭学が普及すると江戸は西洋医学の中心となります。一方、大坂ではまず天文学への関心が高まっていました。浅間山の噴火など天災地変も相次ぎ、飢饉も頻発。正確な観測技術による暦の必要性が痛感されていたのです。そんな時代背景を受けて、大坂の合理主義、実証精神が発揮された結果だと思われます。
大坂の天文学は麻田剛立に始まりました。剛立は豊後杵築藩の藩儒の子として享保十九年に生まれ、幼いときから天文・暦学・医学に興味を持ち独学で精進していました。三十四才で藩主松平氏の藩医となりましたが、天文学の道を究めたいと脱藩して大坂へ出ます。そして本町で町医を開業。門人の富裕な町人たちのバックアップを得て、実証的な天文学や医学の研究にいそしみます。
その門下の一人が間重富、通称十一屋五郎兵衛。その名の通り、土蔵が十一もある質商です。十七才の頃から算法を学び、星学を志して麻田門に入りました。私財を投じて各種測量器の発明・改良につとめたことで有名です(これらの測定器は伊能忠敬の沿海測量にも貢献しています)。
図2)
「間重富像」近世の著名な天文・算術家の群像画「大坂天文算学者画像」から、間重富部分を抜き書きしたもの(大阪歴史博物館より)。
もう一人が山片蟠桃。彼は剛立の門下でありましたが、懐徳堂の中井履軒の弟子でもありました。豪商升屋山片平右衛門の番頭で、天文、地理から経済、無神論までの多彩な全十二巻からなる「夢の代」という大著をなした人物です(升屋は堂島中一丁目にあった両替商。山片蟠桃は幼少より丁稚奉公し、二十四才で支配役になっています)。
蟠桃のすすめもあって升屋の主人山片重賢・重芳の父子は、その富力にものをいわせて多くの書物や珍器を購入・蒐集しています。こうした天文観測などの器材や自然科学書などが大坂の蘭学者へ惜しげもなく貸し与えられていたのです。
伏見町に軒をつらねた
唐高麗物屋とは?
唐高麗物屋とは?
ご覧の寛政版『摂津名所図会』にあるように、船場の伏見町一帯には唐高麗物屋(からこまものや)という、舶来の珍しいものを揃えた店が数軒をつらねていました。なかでもこの疋田屋杢兵衛の店は規模も舶来商品の数も大坂随一。早くから洋学に関心を示していた山片重芳なども、これらの店で舶来の品々を買い求めていました。
図3)
伏見町疋田屋(『摂津名所図会』四の上)『摂津名所図会』は、五畿内の名所図会の一つとして寛政八年(1796)から十年(1798)にかけて刊行されました。著者の秋里籬島は京都の人ですが、「都名所図会」をはじめ、当時流行した名所図会の多くを著しました。絵は、竹原春朝斎、丹羽桃渓ら八名の画家が手がけています(大阪市立図書館イメージ情報データベースより)。
そのコレクションの内容については「重芳覚帳」という記録が残っています。重芳が一代で収集した和洋の書籍、医療や天文の器具をはじめ、多彩な器物がなんと一千点以上も。そのなかのオランダ渡りのものだけ見ても、書物としては字書はもちろん、地図・天文・測量・博物学に関するものから解剖図譜などの医書まで、じつに膨大なものがあります。器物では顕微鏡、外科のための医療器械、千里鏡などの天文観察用の各種器材、各国製の仕掛け置時計やオルゴールなど、驚くほどの多彩で膨大な量のコレクションです。
もう一度、摂津名所図会の疋田屋杢兵衛の店頭風景を見てみましょう。「異国新渡奇品珍物類」という看板が柱に掛かっています。そしてその左には起電機(エレキテル)が据えてあり、座った男の頭へコードを当ててなにやら実験している様子が描かれています。棚には西洋のカラクリ人形やガラス器なども並んでいます。
こうした大坂町人の異国趣味は、大坂で蘭学が花開くための土壌になっていたと言ってよいでしょう。洋学趣味が富商を中心に大坂町人の間に浸透していったのです。これが町人階層の中から間重富や山片平右衛門(重芳)、山片蟠桃のほか木村蒹葭堂などのいわゆる知蘭派の文化人を生んだ大きな要因の一つだったといえるでしょう。
ちなみに冒頭でご紹介した「蘭学者番付」の東方前頭十枚目に山片重芳、西方前頭二十六枚目に木村蒹葭堂の名が見えます(宗吉を含めて番付八十名のなか、大坂の学者はこの三名)。橋本宗吉は別格として、彼らも知蘭派の町人学者として江戸でも認められていたことが分ります。
浪花から江戸へ
蘭語留学生を送り込め!
蘭語留学生を送り込め!
寛政元年(一七八九年)頃、間重富はすでに天文学と暦学を修め、一流の学者としてその名が知られていました。そんな彼がある日、京町堀の町医者、小石元俊となにかの会合で話をする機会がありました。この元俊は、天明三年(一七八三年)にみずから人体解剖を行い、西洋医学の優秀性に目覚めた先進的な医家でした。
二人には共通の悩みがありました。蘭語が読めなかったのです。当時は西洋の医書や科学書は漢語訳を含めても、ほんの少ししか訳書がありません。もっと多くの洋書で知識を深めたくても、大坂には蘭語を読める学者もいない。自分で蘭語を学ぶには二人とも年を取りすぎていました。
そこで自分たちに代わって江戸で蘭学を学び、蘭書を自在に読み下す力を身につけられそうな青年はいないものかと探していました。そんな二人の前に現れたのが、橋本宗吉だったのです。
宗吉は宝暦十三年(一七六三年)生れ。当時、大坂の北堀江で老いた父親を助け、傘に紋を描くことで両親及び妻子を養っていました。生来英敏で天明三年、二十一才のとき、おそらくお得意先の豪商から借りたと思われるエレキテル(起電機)で実験したりしています。
二人はこの利発で向学心に富んだ宗吉の評判を聞き、さっそく声を掛けます。江戸の蘭学者、大槻玄沢の元へ留学してみないかという提案です。
宗吉には願ってもないことでしたが、両親や妻子を養う身であってみれば、なかなか踏み切れません。そこで小石元俊と間重富の二人が学資と家族の家計一切の面倒を見ることにし、間重富と山片蟠桃の主人升屋平右衛門(重芳)の紹介状を持って江戸の大槻玄沢の芝蘭堂に入門する運びとなります。
四ヶ月で習得した
蘭語がなんと四万語にも!
蘭語がなんと四万語にも!
時は寛政二年(一七九〇年)、宗吉二十八才のときのことでした。宗吉は芝蘭堂入門後、粉骨努力してわずか四ヵ月で四万語の蘭語をマスターし、構文などを覚えるに至ります。ということは当時の蘭和辞書「江戸ハルマ」に載っている単語のほとんどを習得したことになります。現在、デイリーコンサイス英和辞典の収録語数が八万三千語、高校生までに習う学習指導要領の英単語数が三千語だということを考えてみれば、宗吉の学習スピードがいかに驚異的なものであったかが分かるでしょう。
図4)
「橋本宗吉和蘭文」小色紙の蘭文は、「無窮の暦SooーKiti」と読まれる (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より)。
宗吉は遊学をわずか四ヵ月で切り上げ、急ぎ帰阪して、以来小石元俊のために医書を翻訳し、間重富のためには天文や地理の蘭書を読むなど、精力的に両者の研究に助手として努力し、その翻訳料で一家を支えました。
こうした翻訳の仕事を通じて、宗吉の蘭語に対する知識はますます磨かれ、同時に、蘭学に対しても一家言持つようになります。学者の風格も出てきました。升屋平右衛門(重芳)と山片蟠桃は、当時唯一の蘭日辞書であった通称「江戸ハルマ」を宗吉のために購入しています。
それまで、大坂では限られた和訳や漢訳の書物を通じて蘭学に接していましたが、宗吉によってはじめてオランダの書物から直接西洋の科学知識が学びとれるようになりました。こうして真の意味での蘭学が、大坂で興ってきたのです。
元俊と重富の両恩人に尽くした後、寛政八年(一七九六年)、ヨーロッパの地図を参照して、自ら「オランダ新訳地球全図」を作成、五大州の地理や物産、天文に関する著述を加えて出版します。すでにこの頃から宗吉は大坂の蘭学の先達として尊敬される存在になっていました。帰阪後わずか七年、宗吉三十四才の時でした。
図5)
「オランダ新訳地球全図」 寛政八年歳丙辰冬十一月官許印行。本図は東西二球図を含むオランダ語による書籍をもとに作られた。図の周囲の解説文は宗吉が撰文したものと思われ、漢籍や朽木昌綱『泰西輿地図説』、森島中良『紅毛雑話』などを引用している。(略)東西二球図の形の世界図としては、司馬江漢の「地球図」(寛政四年刊、銅版図)に続く我が国で二番目の出版として重要な意味をもつ (明治大学図書館「蘆田文庫特別展」より)。
この地球全図は出版以来、ベストセラーとなります。折からロシアや英国の戦艦がたびたび日本を訪れ、通商を迫るという事件もあり、外国への関心が高まっていた時代です。そんな時代背景もあって、この地図は宗吉の死後にも異本や偽本が出るほどの人気でした。
宗吉一門による
葭島の刑場での人体解剖
葭島の刑場での人体解剖
それから二年後、寛政十年に宗吉は医者を開業し、合わせて蘭学の教授を始めます。のちに安堂寺町で絲漢堂と称する塾と内科と外科も開業します。さらに文政年間の初めには少し東の車町へ移りました。そこから一キロほど東には住友の鰻谷の銅吹所があり、火傷などに事故が頻繁でした。宗吉はそんな際に銅吹所へ往診し、救急処置をしたと住友家の記録に残っています。
寛政十二年(一八〇〇年)四月二十五日、宗吉門下の医師、伏屋素狄(そてき)や各務文献ら絲漢堂グループによって葭島の刑場で女屍の解剖が行なわれました。総師としてもちろん宗吉も立ち会っていたはず。この葭島というのは木津川と三軒家川とにはさまった中洲(難波島)の北に広がる一面ヨシが茂った野原でした。ここに斬首の処刑場があり、寛政年間のなかごろより人体解剖が許されていました。
このときの文献として「婦人内景之略図」という彩色解剖図巻が、現在数点残っています。図巻では、動物実験で行ったと見られる墨汁を使った腎臓濾過の実験などについても図解されています。漢方医学では輸尿管の存在すら知られていなかったことを思えば、この実験がいかに画期的だったかが分ります。
文化元年(一八〇四年)からは、その後十年にわたって蘭科「三方法典」の記述を試み、全六巻を順次上梓してゆきます(三方とは製薬・処方・治療の三つをさします)。序文は大槻玄沢。本草・薬方・製薬・治病・奇方秘術などの各部門からなるもの。この書が世に出るや、橋本宗吉の名声はさらに天下に轟くことになります。絲漢堂は門前市をなすという状態でした。
図6)
橋本曇斎肖像(杏雨書屋所蔵)名は鄭、通称宗吉(大阪歴史博物館より)。
電気学史の一頁目を
橋本宗吉が切り拓いた
橋本宗吉が切り拓いた
同じ頃、四十代の宗吉はエレキテル(電気)の研究にも没頭します。エレキテルを奇術としてでなく、学術的に活用すべく、電気による治療を実験研究によって模索しようとしたのです。
そして蘭書からの資料を参考にしながら、数々の実験を試み、それらをまとめて文化十年(一八一三年)「阿蘭陀始制エレキテル究理原」上下二巻を完成させました。これはわが国において学術的な電気の研究書の嚆矢でした。本の刊行は奉行所によって不許可になりましたが、写本で流布されています。
同書のなかでこんな実験も紹介されています。「泉州熊取谷にて、天の火を取る図説」というのがそれです。門人であった熊取の庄屋、中喜久太の自宅にあった、高さ四十メートルほどの松の木の枝に桶を取り付け、そこから針金を地上に垂らす。その端を一人の男が左手に握り、右手の指をもう一人の男の指に近づける。やがて雷が松に落ちます。すると両者の指の間で火花が散ったという実験。すでにフランクリンが凧によって雷が電気であることを実証していましたが、これを原書で読んだ宗吉がなんとか確かめたいと思っていたのを門弟が実験してみせました。ずいぶんあぶなっかしいことをやっていたものです。
図7)
「泉州熊取谷にて天の火を取りたる図説」
この挿し絵は望遠鏡製作で有名な貝塚の岩橋善兵衛が描いたものです(熊取町公共施設案内「重要文化財 中家住宅」より)。
このほか「エレキテルの気にて紙人形を踊らせる図」や「エレキテルの火の力にて蛙・鼡(鼠)・雀を気絶させる図説」などもあります。びっくりさせられるのが「ふすまごしに百余人を肝つぶさせる図説」。当時絲漢堂のとなりに旭昇堂という寺子屋があり、宗吉はそこへ手製の起電機を持ち込みます。そして隣室でたがいに手をつなぎあった百余人の子どもたちに、ふすま越しに電気を送り仰天させたというものです。
エレキテルについては、平賀源内が安永五年(一七七六年)、長崎から持ち帰った起電機を修復し、わが国で初めて実験を行なっています。しかし源内は才気があり、器用な性質ではありましたが、蘭語や蘭学に通じておらず、実験も一時の興味本位のものであったようです。また電気について書かれた最初の文献には後藤梨春の「紅毛談(おらんだばなし)」があります。
それでもなお宗吉が日本電気学の始祖と呼ばれるのは、彼こそが電気の用途を海外文献によって科学的に訳し、自然科学的な実験の対象にまで高めた最初の人物だったからなのです。わが国の電気学史の一頁目を切り拓いたのはやはり橋本宗吉だったといって間違いないでしょう。
残念ながら、文化十年二月に出されたこの書の出版願いは八月に却下され、刊行されずに終わってしまいました。まだまだ当時は、電気は人を惑わす妖術のたぐいだという理解しかされていなかったためです。
大塩平八郎が
宗吉に切支丹の嫌疑?
宗吉に切支丹の嫌疑?
宗吉の畢生の大事業は、「西洋医事集成宝函」の翻訳でした。本書は本草及び治病の二編からなり、文政二年(一八一九年)から同六年にかけて一巻から六巻まで刊行されました(残る三十巻は活字にならず筆写本で終わっています)。その後も宗吉は、翻訳しつつ、実際に応用してみては加筆訂正するといったことを繰り返していましたが、文政十年(一八二七年)の初冬、その出版のまだ終わらぬうちに大坂を去って芸州(広島)竹原に赴きます。
宗吉の婿養子の秀平が学業なって故郷の竹原で開業しており、そこへ宗吉が出向いたのです。足掛け三年そこにいて、天保元年(一八三〇年)に帰阪しています。でも、なぜこんな時期に宗吉は大坂を離れたのでしょうか。
文政十一年にはシーボルト事件がありました。宗吉にはなんの関係もない事件ではありますが、蘭学者の迫害が次第に激しくなり、一時身を潜める必要があったのかもしれません。
また、前年の文政十年には切支丹婆事件が起こっています。これは京都の豊田貢という陰陽師が禁教のキリシタンだということで天満の与力大塩平八郎がその一味十数名を捕らえた事件。宗吉の門人の藤田顕蔵がその中の一人だったことから宗吉にも疑いが持たれたといったことも考えられます。もとより宗吉には身に覚えもないことで大坂を離れるまでもなかったわけですが、世間の目をはばかってのことだったのではないでしょうか。
文政十二年には切支丹婆事件、そして翌十三年にはシーボルト事件も決着がつき、天保元年に宗吉は帰阪しています。もし宗吉になんらかの嫌疑がかかっていたとするとこんなに早くは大坂へ戻れなかったはずです。やはり世間の蘭学者に対する疑惑の目を逃れての竹原行きだったのだと思われます。
宗吉は天保七年(一八三六年)に七十四才で没し、一族の墓所である念仏寺(上本町四丁目)に葬られたという記録がありますが、現在宗吉の墓はありません。現在建っている墓碑は大正十五年に宗吉に正五位が送られたのを顕彰して建てられたものです。
宗吉の絲漢堂こそ
適塾の源流
適塾の源流
大槻玄沢は自著「蘭訳梯航」に「東西の宇橋」として、その著書や門人の多いことで、江戸の宇田川玄真(榛斉)と大坂の橋本宗吉を併称しています。さらに、杉田玄白は「蘭学事始」で「五畿・七道・山陽・南海諸道の人を誘導し」と宗吉の門人の多さを記しています。これらを見てもいかに宗吉が後進の育成に力を注いでいたかが分ります。
図8)
橋本宗吉絲漢堂跡(大阪市中央区南船場三丁目)
その門人には大矢尚斎、斉藤方策、中天遊、大高元恭、新宮涼庭などがあげられますが、いずれも一家をなしています。その学問的影響は単に医学・天文学・電気学などに留まらず、実に広範なものがあります。
福沢諭吉は緒方洪庵の高弟であり、その洪庵は中天遊に学び、天遊はまた宗吉の門下であることを考えれば、まさに橋本宗吉の絲漢堂は適塾の源流であるといってもいいでしょう。
(平野)
参考文献
「大坂蘭学史話」(中野 操著 思文閣出版)
「蘭学と日本文化」(緒方富雄編 東京大学出版会)
「上方の研究 第四巻」(宮本又次著 清文堂出版)
「適塾をめぐる人々—蘭学の流れ—」(伴 忠康著 創元社)
「解体新書 蘭学をおこした人々」(小川鼎三著 中公新書)
「蘭学の時代」(赤木昭夫著 中公新書)
「なにわ町人学者伝」(谷沢永一編 潮出版)
「大坂蘭学の始祖・橋本宗吉伝 負けてたまるか」(柳田 昭著 関西書院)
「新修大阪市史第四巻」(新修大阪市史編纂委員会編)
「漢学と洋学 伝統と新知識のはざまで」(岸田知子著 大阪大学出版会)
「山片蟠桃と大阪の洋学」(有坂隆道著 創元社)
「おらんだ正月—日本の科学者たち—」(森 銑三著 角川文庫)
「日本洋学史の研究㈵」(有坂隆道編 創元社)
「大坂蘭学史話」(中野 操著 思文閣出版)
「蘭学と日本文化」(緒方富雄編 東京大学出版会)
「上方の研究 第四巻」(宮本又次著 清文堂出版)
「適塾をめぐる人々—蘭学の流れ—」(伴 忠康著 創元社)
「解体新書 蘭学をおこした人々」(小川鼎三著 中公新書)
「蘭学の時代」(赤木昭夫著 中公新書)
「なにわ町人学者伝」(谷沢永一編 潮出版)
「大坂蘭学の始祖・橋本宗吉伝 負けてたまるか」(柳田 昭著 関西書院)
「新修大阪市史第四巻」(新修大阪市史編纂委員会編)
「漢学と洋学 伝統と新知識のはざまで」(岸田知子著 大阪大学出版会)
「山片蟠桃と大阪の洋学」(有坂隆道著 創元社)
「おらんだ正月—日本の科学者たち—」(森 銑三著 角川文庫)
「日本洋学史の研究㈵」(有坂隆道編 創元社)