このページは「八軒家かいわいマガジン」内の記事のテキスト版(画像なし)です。
Flash版(画像付き)ではコンテンツを縦書きでご覧いただけます。
Flash版はこちら

八軒家タイムトラベル=大正十三年(一九二四年)四月三日

船場や島之内の
商家のぼんぼんたちが
作った洋画研究所


 明治時代は大阪にはまだはっきりとした画壇というものはなく、日本画では京都の四条派の流れをくむ画家たちに圧倒されていました。江戸時代、あれほどゆたかであった上方文化の伝統も、絵画という面でいえば不毛な時代を迎えていたのです。

 一方、洋画では大正三年、文部省美術展覧会(文展のちに帝展)の旧派と新派が対立し、梅原龍三郎や坂本繁二郎などの新派のメンバーが二科会を設立して文展と袂を分かちます。大阪出身の黒田重太郎や鍋井克之も、これに参加します。

 大正後期には日本洋画界の主流は帝展からこの二科展へと移っていきました。大正十二年四月には大阪の黒田、鍋井、小出楢重、国枝金三ら三十代の気鋭の画家たち四人が揃って会員に推挙されています(佐伯祐三も大正十五年に二科賞受賞)。このように当時の二科会では大阪出身の画家たちが中堅として活躍していたことが分ります。

図1)
↑小出楢重の画壇デビューとなった「Nの家族」。この作品で二科展で有望な新人に与えられる樗牛賞を受賞。『花美術館VOL7』より。

「大阪に文化人の集うサロンを」
このひと言が誕生のきっかけだった

 大正十二年九月一日といえば関東大震災があった日ですが、この日は第十回二科展の開催日でした。選考委員でもある黒田重太郎、小出楢重、国枝金三は上野の会場にいましたが、正午前に大地震に見舞われます。このまま二科展が閉会ではいかにも残念だと、大阪へ帰った三人は早速朝日新聞社を訪ね、二科展を大阪や京都へ巡回させることを実現させます。こうしたことで三人は行動を共にすることが多くなり、親交を深めていきました。欧州から帰国した鍋井克之も同年十一月には東京から大阪へ居を移し、彼らに加わります。

 彼らはいずれも大阪の商家のぼん(坊ちゃん)。「商人に学問はいらない」という気風がまだまだ色濃く残っていた船場や島之内などの商家ですから、画家になるというのは親や親戚から猛反対を受けます。四人はそんな境遇の中で、画家への困難な道を歩んできました。どこか相通ずるところがあったのでしょう。

図2)
↑生家「天水香」の店先に立つ小出楢重(大正七年)。『聞書き小出楢重』より。

 ある日、鍋井は懇意にしていた根津清太郎から「文化人が集う倶楽部のようなものを作りたい」という相談を持ちかけられます(根津家は本町で貿易商を営み、また木綿問屋でもありました。今でいう総合商社で、現在の靭公園のあたりほとんどを所有していました)。

 当時、小出らのところには、画家を目指す若い人たちが自分の絵の批評を乞うために頻繁に訪れていました。これに時間を取られるのが、悩みの種となっていたのです。何人かで代わり合って指導のできる研究所のようなものがあれば好都合だなあという話がよくでていました。そこで鍋井が「倶楽部なら無収入だが研究所なら月謝がとれる」と根津を説得。ここから洋画研究所の開設が具体化してゆきます。

エレベーターまである近代的なビル。
窓からは中之島が一望できました

 大正末期から昭和の初めにかけての大阪は「大大阪」と呼ばれ、近代化が急速にすすみ、東京を越えるほどの発展を遂げつつありました。市内の幹線道路である御堂筋が拡張され、地下鉄も敷設されていきます。庶民の生活も心斎橋などの繁華街を中心に活気に溢れていました。

図3)
↑信濃橋洋画研究所があった日清ビル。『花美術館VOL7』より。

 そんなモダンな文化を象徴するような近代的なビルが竣工します。信濃橋交差点北西角に建った市内でも指折りのモダンな鉄筋コンクリートのビルディング、日清生命ビルがそれです。なんと当時東京でも日銀などにあっただけというエレベーターまで設けられていました。
 信濃橋は交通の要所。交差点には市電の停留所があり、大正十三年には青バスも開業して一層便利になっていましたから立地としてもいうことはありません。しかも窓からは中之島の近代的な街の景色が一望できます。

 このビルの四階の二部屋を借り切って信濃橋洋画研究所が大正十三年四月三日にオープン。大阪のぼんぼんたち念願の研究所が誕生したのです。
 根津清太郎のほか、のちに朝日新聞社主となる上野精一や貿易商の山本顧弥太、鉄鋼問屋の津田勝五郎など文化に理解のある財界人十名ほどが後援者となりました。
 それまでは、画壇は東京や京都を中心に動いてきましたが、この信濃橋洋画研究所の開設を機に、大阪がクローズアップされていくことになります。

図4)
↑信濃橋洋画研究所開所式にて。前列左から鍋井、小出。二列目左から国枝、黒田。後列右が根津。『花美術館VOL7』より。

デッサン、油絵などの科目のほか
夏期講習会や公募展なども

 施設や画架、椅子などは根津が援助し、鍋井、小出、国枝が一週間交代で無報酬で指導に当たりました。鍋井は家が上六の北山町と近かったこともあり、二日に一度は顔を出していたようです。黒田も途中から加わりました。
 油彩画のほか水彩画、デッサン、解剖学、美術史などの授業があり、クラスも平日と日曜、さらに午前、午後、夜間に分けられ、初心者から画家志望者まできめこまやかなカリキュラムが整っていました。日曜部では「石工」「人体」「クロッキー」などの実技指導が行われています。

 気鋭の画家四人による指導は人気を集めました。大阪でも明治時代から、松原三五郎の「天彩画塾」や赤松鱗作の「赤松洋画塾」などが開設されていましたが、まだアトリエは和服姿で絵筆を握るといった状態でした。ところが信濃橋洋画研究所では近代的なビルでカンヴァスに向かうことができる。モダンな雰囲気のなかで洋画が学べるということで評判になりました。
「東京なにするものぞ」と大阪で洋画を学ぼうとする人たちが増えていきます。大阪人の「新しいもん好き」のほか中之島の近代都会の景観も洋画熱を高めていった要因ではないかと思われます。

 しかし家賃は四百円(生徒の月謝は普通部十円、夜間部五円)。これは当時の小学校教員の初任給が十二~二十円でしたからかなり高額なものでした。鍋井の回想によると朝日新聞社の上野精一など、後援者のところへたびたび金策に回ったりする日々であったようです(頼みの根津商店も清太郎の放蕩がたたってか、昭和七年には倒産してしまいます)。
 大正十三年頃にはまだ洋画を扱う画商はなく、ほとんど油絵の注文はありません。たまにあったとしても、小出の裸婦像を見て買手は驚いてしり込みしてしまいます。黒田以外は親の遺産でなんとか食いつなぐという状態でした。それでも講師の四人は熱心に指導を続けました(洋画の注文もなく、ほかに仕事もしないわけですから幸い時間はあったというわけです)。

図5)
↑「裸女結髪」(小出楢重 昭和二年)。モデルは重子夫人。鏡に顔半分が映っているのは楢重一流の遊び心でしょうか。

受講生には百貨店のデザイナーも。
向井潤吉もその中の一人でした

 四人の教授陣の中でもひときわ指導力を発揮したのが小出楢重。厳しく、鋭い指導には定評がありました。小出楢重の教えを受けた生徒の一人、長谷川三郎(日本へ抽象芸術やイサムノグチを紹介した画家・評論家)は当時を振り返って「小出の指導はことのほか厳しく、思わず泣き出してしまう男もいた」と語っています。この厳しい指導の中で育っていった画家に田村孝之助、仲田好江らがいます。

図6)
↑「雪の市街風景」(小出楢重 大正十四年)。画面中央にあるのが信濃橋。いままさに市電が上を通り過ぎて行く。この絵の時代、御堂筋は完成しておらず、大阪の南北を貫く大動脈であった四ツ橋筋と、東西を貫くメーンストリートの本町通りが交差するこのポイントは、どちらも市電が走り、大阪都心交通の要衝であった。『浪花八百八橋』(橋爪節也)より。

 一方、かつての赤松塾も信濃橋洋画研究所に刺激され、大正十五年心斎橋の丹平ハウスに移転して「赤松洋画研究所」として再スタートを切っています。こちらの研究所からは吉原治良などが輩出しました。

 信濃橋の受講生には、旧来の呉服店から経営の近代化をはかる百貨店の宣伝部のデザイナーたちの姿も見られました。なかでも高島屋のメンバーたちは人数も多く、研究所内で一つのグループを形成するほどだったといいます。のちに「古民家のある風景画」で知られる画家、向井潤吉もその一人でした。

 百貨店は当時、モダン文化の発信地でもありました。三越呉服店は大正六年に地上七階建ての北浜の店舗を新築。十年には備後町に白木屋呉服店、十一年には心斎橋の十合(そごう)呉服店の南隣に大丸、高島屋も長堀橋筋に新店舗を開設します。そして翌十二年には日本橋筋に松坂屋もオープンします。モダニズムに溢れた豪華なポスターやパンフレットが次々と作られていきました。

 こうした百貨店の隆盛で、デザイナーたちの意気も上がります。彼らは、従来の図案家といった仕事から、より近代的な意匠やグラフィックデザインという新しい領域の必要性を感じて、洋画などアートへの関心を高めていったのです。

図7)
↑「市街風景(街景)」(小出楢重 大正十四年)。大江橋北詰の堂島ビルディングから西を向いて描いた"大大阪"のパノラマだ。堂島川を挟んで右が堂島浜通り、左が中之島で、朝日新聞本社、大阪堂島米穀取引所、大阪府立医科大学附属病院(後の阪大病院)などや、竣工なった大阪ビルディングが画面に詰め込まれる。『美術都市大阪発見』(橋爪節也)より。

関西を代表する公募展のほか
クレパスの商品化にもひと役

 信濃橋洋画研究所の特徴は、単に絵を学ぶだけの場ではなかったことです。美術に関する講義、夏季講習会や展覧会(公募展)を開催し、大阪市内に限らず、関西一円から生徒を集める、これまでの画塾を越えた研究所にしようという狙いがありました。

 なかでも公募展は週刊朝日共催。同誌のグラビアなどで作品を紹介したことでさらに人気に火をつけます。また日曜日の指導は新たな生徒層を広げることにもつながりました。信濃橋洋画研究所が近代大阪の活気ある画壇を作り出してゆく原動力となったといえるでしょう。

 研究所開設の年に開かれた第一回展覧会では約二八〇点の作品が集り、女性も六分の一に達していました。さらに展覧会には、個人所蔵のゴッホの「向日葵」やデュフィの「海」、ビッシエールの「花束を持つ少女」が展示されます。本物の西洋画を見る機会の少なかった当時としてこれは画期的な企画でした。
 この展覧会は回を重ねるごとに充実してゆき、その名も「全関西洋画展覧会」と名を変え、広く関西を代表させる展覧会として中央画壇と相対できる権威あるものにまで発展してゆきます。

 サクラクレパス(当時は日本サクラクレイヨン商会)がクレパスを開発したのもちょうどこの頃です。同社の経営陣はたびたび信濃橋の研究所を訪れ、商品化に関する相談をしていたようです。「小学生向けにもっと使いやすくて、色彩豊かな画材を」ということで誕生したクレパスの開発に研究所もひと役買っていたわけです。

信濃橋洋画研究所がその後の
大阪画壇の流れを作った

 年を追って教授陣は充実していき、やがて信濃橋洋画研究所が大阪の洋画壇の構図を大きく変えていきました。信濃橋洋画研究所自体は、昭和六年、小出楢重の死去とともに幕を閉じますが、同年、研究所は中之島の朝日ビルディングに移転して「中之島洋画研究所」としてさらに発展してゆくことになります。

 そして戦時中の閉鎖を経て、戦後は大阪市立美術館附属美術研究所へとそのコンセプトは受け継がれていきます。そこに学んだ次世代の画家たちが、五〇年代後半から六〇年代にかけてできた関西圏の芸術系大学の指導者となっていったのです。大大阪と呼ばれたモダンな時代に始まる大阪洋画壇の流れは、信濃橋洋画研究所がその原点だったといえるでしょう。

図8)
↑「信濃橋洋画研究所跡」碑(大阪市西区靫本町1 信濃橋交差点北西角)=二〇一二年三月二十九日撮影


 ここで少し研究所の中心だった四人の画家について触れておきましょう。

 小出楢重(一八八七-一九三一)は、島之内の膏薬屋「積善堂」の長男として生れました(扱っていたのは花柳病の専門薬「天水香」。幕末の頃から一子相伝の膏薬で土地柄もあって繁盛していました)。家業は弟にまかせて、自らは東京美術学校(現東京藝術大学)へ入学、画家への道を進みます。
 その後、文展に何度も出品しますが、落選続き。しかし鍋井の友人であった広津和郎のすすめで、大正八年に「Nの家族」を二科展へ出品。有望な新人に贈られる樗牛賞を獲得し、以降順調に名声を築いてゆきます。


千日前の猥雑さと芦屋の
洋風生活が生んだ画風

 小出楢重の絵には濃厚な大阪的な気分が横溢していました。重厚な絵具の塗り方や粘りのある筆致が大阪を思わせるのかもしれません。父は日本画を学び、書もよくし、浄瑠璃を語る大阪の商家の趣味人でした。子供の頃には誰彼となく魔窟という言葉が似合う千日前へ連れられていかれたといいます。
 まだ映画館はありませんでしたが、海女の水槽への飛び込みショーや曲馬団、ろくろ首、女奇術師、女相撲などといったエロテイックでグロテスクな世界が歩いてすぐの千日前にありました。そんな濃厚な空気を呼吸しながら育ったことも小出の画風に影響を与えたのでしょう。

 大正十五年には別荘地として開発された芦屋へ転居します。そこで洋服で過ごし、テニスやドライブ、写真や八ミリを撮るといったモダンな生活を送ります。洋館のアトリエで、楢重の主要なテーマである裸婦の大作が次々と描かれていきます。こうして「大阪的なもの」と「モダンさ」の両面を持つ小出の画風が出来上がっていったのです。
 飄々とした味わいのある随筆などの文章には以前から定評がありましたが、芦屋へ移って楢重は昭和五年に「油絵新技法」を出版します。切っ先鋭くエスプリに溢れたこの書は、反アカデミズムの小出楢重の真骨頂だと言えます。

 昭和三年十二月からは谷崎潤一郎の「蓼喰ふ蟲」の挿絵を描き始めます。大阪毎日新聞の連載新聞小説。谷崎が小出を希望したのと、住まいが近くだったことから実現した企画でした(谷崎は大正十二年の関東大震災で芦屋へ逃れてきていました)。これにより小出は挿絵の新境地を切り拓いていくことになります。「蓼喰ふ蟲」は翌年六月まで八十三回にわたって掲載されました。

 昭和四年の暮れ、持病の心臓弁膜症が悪化して入院。しかし年明けには回復していったん退院するまで持ち直します。二月十二日、谷崎夫妻が見舞いに訪れて歓談します。容態が急に悪化したのはその夜半でした。心臓発作に襲われて昏睡状態に陥ります。そして翌日午後三時永眠。享年四十三才でした。

鍋井克之の随筆「大阪ぎらい物語」は
藤山寛美の十八番にもなりました

 鍋井克之(一八八八‐一九六九)は明治二十一年、西区北堀江で生まれました。天王寺中学校で最初日本画を学びますが、途中から洋画に転じて、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝らに学んでいます。同期に小出楢重がいましたが、在学中はあまり交遊することもなく過ごしたようです。
 文筆の面でも天王寺中学の後輩宇野浩二を通じて広津和郎や葛西善蔵らと交わり、小説や随想家としても人気がありました。なかでも随筆集「大阪ぎらい物語」は松竹新喜劇で脚本化され、藤山寛美の十八番となっています。

 国枝金三(一八八六‐一九四三)は商業学校時代に相撲をとって右腕の関節を痛め、それがもとで蝋問屋だった家業を継ぐことを断念。画家になることになります。生涯利き腕の右腕の痛みに苦しみ、左手で絵筆を握っていました。そして昭和十六年には右腕が悪化して切除することになります。しかしそのあとも絵筆を離すことはありませんでした。
 しかし絵は思うようには売れず、収入は雑誌や新聞の原稿料(当時大阪毎日新聞の美術記者をしていた井上靖も国枝にたびたび原稿依頼をしていました)や学校での講義料などわずか。借家収入で暮らしを支えるという状況でした。

 黒田重太郎(一八八七‐一九七〇)は船場の木綿問屋の旧家の長男。上京して慶応義塾に入学しましたが、画家への道にすすませてもらう約束で退学して大阪へ戻ります。が、結局家業である花街まわりの呉服商に従事させられてしまいます。その後、浅井忠を師として学び、京都を中心に活躍します。信濃橋洋画研究所の理論的な指導者でもありました。のちに京都市立美術大学洋画科主任教授。

(平野)

(参考文献)
「変容する美意識 日本洋画の展開」(島田康寬著 京都新聞社)
「聞書き小出楢重」(小出龍太郎著 中央公論美術出版)
「小出楢重と谷崎潤一郎」(芦屋市立美術博物館)
「小出楢重随筆集」(芳賀徹編 岩波文庫)
「花美術館VOL7 小出楢重その生涯と芸術」(花美術館)
「大阪ぎらい物語」(鍋井克之著 布井書房)
「大阪繁盛記」(鍋井克之著 東京布井出版)
「京都洋画の黎明期」(黒田重太郎著 山崎書店)
「関西の洋画壇」(黒田重太郎著 「日本美術工芸」301~318号)
「小出楢重と阪神間モダニズム」(津田奈菜絵著 「表現文化研究」第八巻第二号 神戸大学表現文化研究会)
「忘れ得ぬ芸術家たち」(井上 靖著 新潮文庫)
「大阪春秋第48号」(大阪春秋社)
「新修大阪市史第六巻」(新修大阪市史編纂委員会編 大阪市)
このページは「八軒家かいわいマガジン」内の記事のテキスト版(画像なし)です。
Flash版(画像付き)ではコンテンツを縦書きでご覧いただけます。
Flash版はこちら