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八軒家タイムトラベル=貞享元年(一六八四年)六月五日

西鶴 渾身の大矢数。
一昼夜でなんと
二万三千五百句達成!


 この日、貞享元年(一六八四年)六月五日は午後から住吉社にはかなりの人出がありました。神前で西鶴が前代未聞の「大矢数俳諧興行」を打つというのです。大矢数とは暮六つ(夕方六時頃)から翌日の暮れ六つまで一昼夜かけて一人で何句詠めるかを競うもの。当時流行っていた京都三十三間堂で行われていた「大矢数(通し矢)」をヒントに西鶴が延宝五年(一六七七年)に始めた興行です。今回はなんと二万句を詠むといいます。
 ちなみに寛文九年(一六六九年)に三十三間堂の大矢数で天下一となったのは西鶴と同い年の星野勘左衛門。総矢数一〇五四二本を射続け、その内八〇〇〇本を射通すという人間業とは思えない記録を残しています。

 さて、見物客が詰め掛ける社殿では小西来山らの俳人が列座し、執筆役などが威儀を正して居並んでいます。後見役として江戸から出向いてきた芭蕉門の宝井其角の顔も見えます。さあ、暮れ六つになりました。「神力誠をもつて息の根とめよ大矢数」。群衆の注視の中、西鶴が一句目を詠みあげます。以降立て板に水といった調子で次から次へ句を吐き出してゆきます。


図1)
↑「住吉祭礼図屏風」(左隻部分)住吉大社蔵
六曲一双で、右隻は京都上賀茂の「賀茂競馬」。六月の晦日、住吉大社から堺宿院の御旅所まで神輿が渡御する荒和大祓神事を描く。制作は一六〇〇年代後半で、西鶴と同時代。

なんと三・七秒に一句という猛スピード

 執筆役が書き止めようとしても句のスピードに追いつけません。句ごとに懐紙に棒線を引くということでしか記録が取れないほどの速さです。夜が明けても西鶴に疲労の色は見せません。そして暮れ六つ。なんと詠まれた句数は二万三千五百にものぼりました。これは三・七秒に一句作った計算になります。
「さあどうだ。この記録は誰にも破れまい」と西鶴は得意満面です。

図2)
↑西鶴真蹟短冊。二万三千五百句の記録を成就した後に書き与えたもの。「二万翁」の自署に西鶴の得意ぶりがうかがわれる。「井原西鶴」(谷脇理史ほか著)より。

 西鶴といえば俳諧から浮世草子の作者へ転進したといったイメージが持たれていますが、実は西鶴自身は生涯を俳諧師として生き抜きました。負けん気も人一倍強かったようです。では、俳諧師としての西鶴の野望と挫折の生涯を辿ってみましょう。

 井原西鶴は寛永十九年(一六四二年)、大坂は鎗屋町の生まれ。本町通から一つ南の通り、御祓筋からちょっと東に入ったあたりに生家がありました。

 このあたりは武家向けに刀剣類を扱う商人が集っていました。将軍秀忠が元和五年(一六一九年)、大坂城を天領とし伏見城を廃した際に伏見八十余町を大挙して鎗屋町などへ移住させましたから、そんな関係で武具や金物を扱う商人が多くいたようです。
 そういったことから西鶴の生家も刀剣類を扱う商家だったのではないかと推測されています。大坂天神橋で江戸買物問屋を営んでいた日野屋床左衛門が西鶴だったという説もありますが確かなことは分かりません(江戸買物問屋とは江戸向けの諸商品を買い付ける問屋のこと)。
 父母に関する記録はなく、西鶴はどうやら祖父に育てられたようです。左の西鶴画像を見ると胸に「細輪に花菱」の家紋があります。これは武田旧臣の家柄であったことを示しています。とすると、西鶴の祖先は浪人になったあと大坂へ出てきて町人になったのではないかと思われます。

図3)
↑「浪華西鶴翁画像」芳賀一晶画。「井原西鶴」(谷脇理史ほか著)より

俳諧は貞門派から談林派の時代へ

 当時、大坂天満天神に連歌所がありました。この連歌所の宗匠として正保四年(一六四七年)、京都から迎えられたのが西山宗因。肥後の浪人で京都で連歌師になった人物です。天満宮境内の庵を住まいとしました。
 宗因は連歌の合間に俳諧を始めます。彼の元に集っていた商人たちは、伝統や約束事のきびしい連歌よりも自由な俳諧に熱心になっていきます。当時、俳諧は京都の松永貞徳を祖とする貞門派が主流でした。しかし宗因らは貞門派の俳諧にあきたらなさを感じます。まだまだ決まりごとにとらわれていて古臭いというのです。こうして宗因を中心とする新しい作風の談林派が大坂で生まれることになったのです。

 さて西鶴は、明暦二年(一六五六年)十五才の時、北革屋町(いまの船越町一丁目あたり)の足袋屋へ奉公に出されます。この頃から彼の遊興が始まります。俳諧も始めたに違いありません。当然談林俳諧に興味を持ちます。
 寛文二年(一六六二年)、二十一才になった西鶴は遊び仲間を寄せ集め自らが点者となります(点者とは、人の作品を採点して点料をもらう、いわば俳諧のプロのこと)。もちろん俳諧師としてまだ大坂で名も知られていません。なんともうぬぼれの強い目立ちたがり屋。西鶴の面目躍如といったところです。

図4)
↑西鶴自画自撰による「歌仙大坂俳諧師」(延宝元年刊)より。法体となる前の若き西鶴の姿を伝える唯一の肖像。句は「長持に春ぞくれ行更衣」。「井原西鶴」(谷脇理史ほか著)より

 寛文六年(一六六六年)二十五才で結婚。しかし西鶴はその後も俳諧三昧。翌年四月、京都へ上がった西鶴は俳諧で名の高かった西岸寺の住職任口(にんく)を訪ねます。興がわいた西鶴は帰りの淀川を下る船中で「軽口にまかせてなけよほとゝぎす」と連句を詠み出します。そして八軒家に着いたとき「花のなみ伏見の里をくだり舟/あげ句のはては大坂の春」と百句目をおさめました。これが西鶴の俳諧師としての開眼となったのです。自信も深めました。

「なんとしても俳諧師として名を挙げたい!」。俳諧熱が嵩じた西鶴は二十七才になった寛永八年(一六六八年)、祖父から継いだ店は手代に任せて自分は店の裏手の隠居所へ移ってしまいます。ここから西鶴は俳諧に没頭します。

 とはいえ思うように名は売れません。寛文十三年(一六七三年)二月、俳諧師らが集って一万句を詠むという松永貞徳追善の俳諧万句興行がありました。有力な俳諧師のほとんどが招待されています。しかし、西鶴はこれに呼ばれず臍を噛む思いをします。

西鶴の負けず嫌いの血が騒いだ!

 しかしここですぐさま西鶴は行動を起します。自ら十二日間にわたる万句興行を催すのです。会場は生玉神社。集った俳諧師は総勢百五十六名にものぼりました。六月にはこの俳諧万句を「生玉万句」として刊行します。これを機に西鶴は宗因に親近し、談林派の俳諧師としての地位を固めてゆくのです。
 延宝三年(一六七五年)、宗因が談林派の有力俳諧師十人の独吟百韻に批評を加えた「大坂独吟集」が刊行されますが、この中に西鶴の伏見から八軒家までの船中で詠まれた百韻が掲載されています。

図5)
↑「俳仙群会図」与謝蕪村筆。貞門の中心だった貞徳(長歌丸)、宗因のほか任口、芭蕉、其角、鬼貫など十四名が俳仙として描かれている。西鶴の姿はない。「井原西鶴」(谷脇理史ほか著)より

 順風満帆と見えた俳諧師への道ですが、延宝三年四月、悲劇がやってきます。三人の子をのこして幼馴染だった妻が亡くなるのです。享年二十五才。末っ子はまだ乳飲み子でした。
 あまりのショックに西鶴は茫然自失。剃髪し法体となります。そして初七日、ひとり家に引きこもった西鶴は妻の位牌を前に、夜明けから日没まで追悼の連句百韻を十巻、計千句を詠みます。わずか十二時間ほどの間に千句(三十秒に一句)を詠んだことで西鶴は自らの速吟の才能にあらためて気づきます。

 延宝五年(一六七七年)、西鶴は三十三間堂で人気の大矢数を俳諧でやってみようと思い立ちます。見物人を集め掟書(おきてしょ)を定め立会人をおいて格式を整えることにしました。周辺へ言い触らして歩いた甲斐あって、当日五月二十五日には会場にした生玉社には数百人の客が集ります。文机の前に西鶴が構えます。横には懐紙に句を書きとめる役や定めに反していないかを判定する役の者が控えます。一昼夜で千六百句を独吟するという興行です。
 「初花の口拍子聞け大句数」を発句に、吉野の花見から親孝行物語、市井の色事といった内容が次々と詠まれていきます。会場も沸きに沸きます。百韻一巻が終わる都度、目付木と呼ぶ木札が立てられていきました。かくして百韻十六巻が成就。西鶴のしたり顔が目に浮びます。

 この千六百独吟の噂が広がると、記録を破ってやろうとする者が現れます。まず同年九月に大和の多武峰の僧、月松軒紀子が千八百句、続いて延宝七年(一六七九年)には仙台の大淀三千風が三千句の独吟を成就します。

 この間、西鶴は俳書の刊行や俳諧興行で忙しい日々を過ごしていましたが、弟子だった椎本才麿が西鶴の門を離れて江戸へ下ります。彼は松尾桃青(芭蕉)らと交わって句会をしているという噂が伝わってきます。さらに小西来山や上島鬼貫などといった若手も台頭してきていました。談林派宗因の跡目を継ぐのは自分以外にないと自負する西鶴にも焦りが出ます。矢数の記録を抜かれたことも頭を離れません。

 そして延宝八年(一六八〇年)。「西鶴がまた大矢数をやる。しかも今度は四千句の独吟らしい」という風評が大坂ばかりか仙台や江戸、美濃や筑前にまで広がります。日時は五月七日、ところは生玉社。吟味役や執筆役、目付木役、時間を計る線香見、医師など十八の役目をこしらえ、その人数は五十五人にのぼりました。出座した連衆は御大の宗因以下七百人を越えます。いかにも西鶴好みの仰々しさです。見物人は溢れんばかり、数千人が押しかけます。

「天下矢数二度の大願四千句」。この発句で前代未聞の矢数俳諧興行の幕が切って落とされました。今回も西鶴がこれまでに見聞きしてきた世相、人情話などが即興の句となって溢れるように流れ出します。そして翌日の暮れ六つ、ようやく四千句に達しました。この西鶴の体を張った興行に見物の町人たちは惜しみない拍手を送ります。大歓声の中、今回の大矢数も大成功に終わりました。

 この大矢数の人気で大坂の貞門派は次第に影が薄くなっていきます。西鶴は談林派の勝利を宣言し、宗因の跡目は自分だと世間に強力にアピールしました。

手慰みとして書き始めた浮世草紙

 天和元年(一六八一年)になって西鶴と談林派の跡目を争っていた岡西惟中の妻が亡くなります。これを機に惟中は俳壇の表舞台から去ってゆきます。功名心の強い西鶴ですが、これにはなんだか気落ちしてしまいます。気の向くままに転合書き(いたずら書き)していた、のちに「好色一代男」として大ブームを起す草子を書くことで気を紛らす日々を送ります。「大晦日定めなき世のさだめ哉」。そんな日々の中でなんだか諦観が滲み出ているようなこんな句を詠んだりもしています。

図6)
↑貞享四年の大坂大絵図。「古板大阪地図」(清文堂出版刊)の一部。ピンク網部分は西鶴が貞享二年、四十四才の時、祖父の家の隠居所から移り住んだ錫屋町や生家のあった鎗屋町一帯(現谷町三丁目)。「江戸人物読本 井原西鶴」より転載。。

 天和二年には西山宗因が死去。とたんに跡目への執着が消えてしまいます。江戸では松尾桃青が芭蕉翁を名乗り、どんどん評価を高めていきます。そんな中、西鶴は俳諧から逃れるかのように草紙を書き続けます。

 秋に「好色一代男」が売り出されるやいなや、いままでの仮名草紙にはない、浮世の人間の生々しい色欲の姿を描いた、このいわゆる浮世草紙が評判を呼び、売れに売れます。以来西鶴はご存知の通り、その後次々と浮世草紙でベストセラーを重ねます。しかし、俳諧に少し倦んだところはあるとはいえ本職はあくまで俳諧師でした。

図7)
↑井原西鶴「好色一代男」天和二年(一六八二)刊。行水する婦人を覗く世之介。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より。

 天和三年三月、宗因の一周忌がきます。宗因の跡目を継いだという意識でいる西鶴はその法要と追善俳諧を営もうと、談林派の主だった者に声を掛けます。しかし誰一人としてこれに応じません。西鶴はすっかり拍子抜けします。なんとか取り巻きを集めて追善興行を行ったものの、寂しさは隠せません。

 その三ヶ月後の閏五月に談林派の芳賀一晶が一万三千五百句の矢数俳諧を成就し、西鶴の記録を塗り替えます。西鶴は猛然と対抗意識を燃やしますが、「好色一代男」の成功で本屋連中からは二作目をやいのやいのとせっつかれます。仕方なく「一代男」の続編と言う名目の「諸艶大鑑」の執筆にかかることになります。今回は諸国の遊里での艶話です。翌年四月刊行。これも大いに売れ、江戸でも刊行されました。

 しかし俳諧師として西鶴は矢数の記録にまだこだわっていました。この刊行のすぐあと、本編の冒頭でも書いたように、住吉社で二万三千五百句の大矢数興行を打ちます。しかし、もう誰にも塗り替えられない記録を打ち立ててもなにか空しい気持になります。西鶴は興行のあとこんな句を詠みました。「射て見たが何の根もない大矢数」。もう数とスピードを争う俳諧の時代はすでに過去のものとなっていたのです。

図8)
↑「井原西鶴終焉之地」碑(大阪市中央区谷町三丁目二番)西鶴文学会
平成五年、井原西鶴没後三百年を記念して建てられた。辞世の句「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」が刻まれている。

(平野)


(参考文献)
「井原西鶴」(大谷晃一著 河出書房新社)
「江戸人物読本 井原西鶴」(市古夏生ほか編 ぺりかん社)
「西鶴を学ぶ人のために」(谷脇理史ほか編 世界思想社)
「平成・西鶴ばなし」(読売新聞大阪本社文化部編著 フォーラム・A)
「西鶴文学地図」(大谷晃一著 編集工房ノア)
「別冊國文學 西鶴必携」(谷脇理史編 學燈社)
「西鶴への招待」(暉峻康隆ほか著 岩波書店)
「井原西鶴」(森 銑三著 吉川弘文館)
「井原西鶴」(枡井寿郎著 保育社カラーブックス)
「井原西鶴」(谷脇理史・吉行淳之介著 新潮社)
「西鶴と元禄メディア」(中嶋 隆著 日本放送出版協会)
「元禄流行作家―わが西鶴」(藤本義一著 新潮社)
「西鶴と元禄時代」(松本四郎著 新日本出版社)
「西鶴矢数俳諧の世界」(大野鵠士著 和泉書院)
「井原西鶴の世界」(市川通雄著 笠間書院)
「井原西鶴 全句集」(乾 裕幸編著 蝸牛社)
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