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八軒家タイムトラベル=慶長八年(一六〇三年)十月二日

家康の朱印状が
川船百年戦争の
始まりだった!

 淀川筋は平安遷都以来、京都と大阪・瀬戸内海を結ぶ交通ルートとして重要な役割を果たしてきました。淀を中心として船持の集団が生まれ、それが石清水八幡宮と結びつき、その権勢のもと水運を独占していたのです。これが後に淀二十石船(以下、淀船)と呼ばれる川船です。これらの船は戦国末期の信長の時代から淀の水運を担い、秀吉の時代となってもその知行を受けました。

 文禄、慶長期には三十石積以上の大船(以下、大坂大船方)が淀川に現れます。もともとは大坂の海上廻船の荷の揚げ下げなど、海運に従事していましたが、これを川船として使用し、淀川内まで進出してきたものです。廻船の船持の手代などが始めたものだといわれています。秀吉や家康の小田原城攻めで功績がありました。
 この二つの船仲間である、淀船と大坂大船方に対して、慶長八年(一六〇三年)十月二日に徳川家康が朱印状を与えます。これらの川船はまとめて過書船と呼ばれ、運上銀と運賃が定められ、新たに設けられた過書座の支配下で淀川の水運を独占することになるのです。

図1)
↑「拾箇国絵図」(「江戸時代図誌・畿内二」より)。宝永・正徳年間(一七〇四~一七一六)。

 中世において淀川には荘園領主の設けた多数の関所がありました。淀川を通行する船は関料を徴収されましたが、関料を免除される特定の船に対しては関所手形によって通関していました。この関所手形が過書で、この過書を有する船が過書船と呼ばれていました。家康の時代には通関の必要はありませんでしたが、淀川筋での独占営業といった特権を持っていたことから過書船と呼ばれたものと思われます。

 過書船には荷船と客船の別があり、荷船は二十~二百石積で、米穀、塩、薪、木材などの運搬にあたりました。客船は淀川客船の代名詞となった三十石船、これも過書船の一種でした。

過書船仲間での争いが勃発

 淀を拠点とする淀船と大坂・尼崎を拠点に置く大船方とは利害関係が異なりました。また淀船は大坂の陣で関東方の軍事輸送に大きく貢献しましたが、大船方は船持が大坂居住だったこともあり所持船を動かせませんでした。
 淀船は軍用船としてのほか、兵糧米の輸送、木津川の架橋など全船をあげて家康軍のために働き、実績をあげています。夏の陣、冬の陣に使用した船数は三五六〇艘余り、水夫は七二六〇人余りにのぼりました。
 ということで淀船には運上銀免除などの特典が与えられます。過書座はこの成り立ちも特典も異なる二系統の川船を呉越同舟という形で抱え込んだスタートだったのです。

 淀船は過書船所定の運賃以下で営業して大船側の顧客を奪っていきます。淀船は船体が軽量で、淀川本流以外に大坂の堀江などにも自由に出入できますから、貨物の積み替えなどの手間も省けます。淀船は勢いを増してゆき、大船方は大きな打撃を受けることになりました。

 しかし大坂の陣での淀船の貢献の記憶の薄れていく頃、寛文期(一六六一~一六七二年)に入ると大船方側が反撃に出ます。淀船の大坂への通船を妨害して、淀船を過書船仲間から排斥するのです。寛文十年(一六七〇年)には、大船方の船持には禁じられていた二十石積の船を新造し、同じ二十石積である淀船と競争するようになりました。

 もちろん淀船側も黙ってはいません。窮状を幕府に訴えます。延宝九年(一六八一年)の調べでは大坂大船方四百四十九艘に対して淀船は四百五十三艘ですから淀船もかなりな勢力を有していたと思われます。しかし、過書座の奉行は運上銀を納めてもらっている大船方についていますから、なかなか訴状は取り上げられません。
 ようやく訴状が受理されたのが正徳五年(一七一五年)のこと。その後ようやく享保七年(一七二二年)に裁許が下されます。こうして淀船は過書船仲間としての諸権利が回復され、寛文期以来の過書船紛争に終止符が打たれることになるのです。

新興伏見船との競争の激化

 しかし紛争はこれだけではありませんでした。元禄十一年(一六九八年)、若年寄米倉丹波守が水路視察のため伏見を訪れ、そのあまりに衰微した状況を見て、公船として十五石積の伏見船二百艘を創設することを決めました。この伏見船は伏見・六地蔵の津出しの貨物すべてを請負い、それを宇治・淀や木津川筋へ運送するばかりでなく、過書船の営業地域である大坂や尼崎と伏見間の貨客運送の許可を得てその勢力を伸ばしていきます(伏見船は当初は十五石でしたが、次第に大型化し、のちにはその大半が三十石以上の大船となっています)。

 過書船が内紛中という折りも折り、過書座はこれを聞いて脅威を感じます。すぐさま京都町奉行に抗議しますが、もうすでに幕府からの許可は下りており、あとの祭り。抗議は認められず、過書船の受注貨物は一気に減少していきます。
 さらに伏見船はその勢いに乗じて三十石以上の船や屋形船計二百艘の建造を申請してきました。元禄十二年(一六九九年)から翌年にかけ、過書座は「これは死活問題だ」と今度は寺社奉行に出訴します。裁定の結果は「この度の伏見新船はすでに許可済みであるから、これを停止することはできない。新船二百艘を過書船として組み込めばどうか」ということでした。

 当時、需要貨物に対して過書船はかなり過剰な状態で、休業中の船が五十艘近くもありましたが、条件をある程度飲まざるを得ません。休業中の五十艘に加えて新たに三十石船を五十艘新造することにしました。さらに過書船は大坂の陣での功績の由緒や毎年頭が江戸へ参礼に行っていることなどを訴えた結果、宝永七年(一七一〇年)、ようやく伏見船の停止が決りました。
 ちなみに元禄十三年の過書船(淀船は当時過書船から外されていました)は二百石以上が五十六艘、百石から二百石が七十九艘、それ以下が四百七十一艘の計六百六艘でした。

図2)
↑過書船(「和漢舩用集」より)。著書は、大阪堂嶋の金沢兼光により、宝暦十一年(一七六一)に書かれたものであり、自らの船大工としての経験をもとに、船に関する中国・日本の文献を渉猟し、船に関係するあらゆる事を記述してある。いわば、江戸時代中期に書かれた「船についての百科」と言うべき書であり、今なお利用されている(京都大学図書館)。

 こうして淀川筋の舟運は再び過書船が支配することになりましたが、伏見の失業者は数千人にのぼり、伏見奉行は再度幕府に伏見船の再興を願い出ます。停止から十二年後の享保七年(一七二二年)、幕府は再び伏見船大小二百艘を許可。伏見に活気が戻ります。一方、過書座は再び窮地に追い込まれます。この年は前述のように淀船が過書船に再編入された年でもあります。そんなときにまた災難が降りかかってきたわけです。

 過書船は淀川の舟運の独占権を得る代わりに幕府の公役船の提供や朝鮮使節来朝の際などにも多数の役船を供出していました。貨物需要は少し上向きになってきていたとはいえ、この負担はかなり利益を圧迫していたのです。
 一方伏見船は役船の負担はかなり減じられ、貨客運送も好調でした。こうしたことから過書船の船方が伏見船に転換する気運も生れてきます。過書座は危機感を感じてたびたび幕府や伏見奉行に嘆願を繰り返しました。その努力の甲斐あって明和元年(一七六四年)、過書船は運上銀を減ぜられ、伏見船の運上銀についてはその半分以上が過書座に下付されることになりました。
 こうして寛文期以来、百年以上に渡って繰り広げられてきた淀川の川船戦争もようやく一応の決着を見せることになります。

過書船と上荷船・茶船の特権争い

 近世の大坂の市中は、淀川に通ずる掘割によって飛躍的な発展を遂げました。これらの掘割を通じて問屋と廻船、川船とを連結する役目を担った船がありました。それが上荷船・茶船と呼ばれる小船でした(上荷船は全長九・三メートル、二十石積。茶船は全長約八メートル、十石積)。これらの船は古くからありましたが、文禄年間(一五九二~一五九六年)からそう名づけられ運上銀が上納されていました。

図3)図4)
↑上荷船(写真上=「和漢舩用集」より)。淀川下流の市内の川筋で活躍し、船底が深く、海・川ともに航行ができる。川口から廻船の上荷を積とり問屋へ、また問屋から荷物を廻船へ積み送るのでこの名があった。
↑茶船(写真下=「和漢舩用集」より)。上荷船と同じ働きをするが、もともとは茶をたいて売っていた船で、海船の構造でありながら浅い川も航行できたので荷物運送船となった。

 大坂の陣のあと、松平忠明の治下になって、これらの船は橋が落ちたときの渡しや役船などの御用を勤めた功績により運上銀を免除されます。元和五年(一六一九年)には大坂両町奉行は船に極印を打ち、上荷船一五九二艘、茶船一〇三一艘と定めました。その後延宝元年(一六七三年)には上荷船三百艘、茶船二百艘、そして河村瑞賢による堀江の開削の翌年元禄十二年には上荷船五百艘が新たに加わります。

 これらの船は大坂市内の諸荷物を運搬し、大坂の川口のほか、西は尼崎・兵庫・神戸、南は堺・岸和田にまで出向いて諸廻船の荷を積み替えて市内の蔵屋敷や問屋などへ運び込んでいました。江戸中期には、これら上荷船・茶船は合わせて三千六百艘余りが堀川を往来。まさに「天下の貨七分は浪速にあり、浪速の貨七分は舟中にあり」(広瀬旭荘「九桂草堂随筆」)と言われた通り、大川が日本の中枢を貫く大動脈だったのです。

 上荷船・茶船以外は荷物を積んで市内の諸川を往来することは禁じられていました。上荷船・茶船が市内での営業権を独占していたわけです。過書船や伏見船も京橋か天満橋までの運航しか許されません。また海路をやってきた諸国諸藩の廻船も安治川・木津川を境に市中へは無断で入れませんでした。

 市中の諸浜への積荷は、一旦上荷船・茶船に積み替えるか、そのまま運航する場合は口銭を支払うという決まりでした。これに違反すると、蔵屋敷の船といえども容赦なく処罰されました。市中の商家では、その多くが通い船として自家用船を持っていましたが、これらに他の客を乗せたり、荷物を運搬することすら禁じられていました。

もう一つの百年戦争が始まった

 淀川を下ってきた過書船は、届け先が八軒家から百メートルといった距離でも天満橋で積み替えるか、口銭が必要となります。当然荷主からは不満が出ます。江戸時代の中頃には過書船は口銭を払わずに天満橋を通過することが通例になり、上荷船・茶船と過書船との間には争いが絶えませんでした。

 享保十二年(一七二七年)、荷主である淀川上流右岸、摂州の百十四の村の農民及び過書船と上荷船・茶船との間に紛争が起きました。農民は市中に青物を売るために過書船を使っていましたが、天満橋から下流に差し掛かると、上荷船・茶船側から「ここから下流はわれわれの特権が優先する」として口銭を要求します。天満橋から青物市場まではわずか一丁です。それなのにここで積み替えるか、口銭を支払うかしなければなりません。

図5)
↑天満市之側(「摂津名所図会」巻四上=大阪市立図書館より)。

「これでは商売にならない」と過書船側も幕府から与えられた特権を主張して譲りません。奉行に訴えての訴訟は十四年間も続きます。その結果寛保元年(一七四一年)過書船側の敗訴となりました。元和五年(一六一九年)以降、百年以上に渡って続いた紛争はここで決着をみることになり、以降市中の運航は上荷船・茶船仲間の独占となり、これが幕末まで続くことになります。

図6)
↑「天満青物市場跡」(北区天満三丁目 南天満公園)。最初は石山本願寺を対象に自然発生し、その後場所の移動もあったが、ここに集まる前は京橋北詰付近にあった。承応二年(1653)当地に移ったが、野菜や果物の供給市場として、市内の相場を左右するほどであった。昭和六年(1931)中央卸売市場に吸収されるまであった(大阪市)。

淀川舟運のダークホース「屎船(こえぶね)」

 幕府より独占営業権を与えられていた過書船仲間や上荷船・茶船仲間にとって頭の痛い問題が屎船の台頭でした。大坂近郊の農家では魚肥が高価で供給も安定しないことから、市中の屎尿を肥料として貰い受け、自分の生産した野菜と交換するようになりました。それらの運搬に使われたのがこの屎船(桶船)です。
 淀川のほか寝屋川や中津川筋から肥桶を積んでやってきた屎船は市中の浜へ着くと汲取人が天秤棒で肥桶をかついで戸毎に尋ねて歩きました。中には野菜などを多めに積んできてそれを売り歩くものもいます。

図7)
↑屎船(桶船=「和漢舩用集」より)。

 大坂町奉行としても屎船のおかげで市中の屎尿の処理に悩まされなくなりますから、屎船に対しては寛大な取り扱いをします。しかし過書船や上荷船・茶船など独占営業権を持つ川船仲間としてはこれを見過ごすわけにはいきません。両者は衝突を繰り返し、しばしば訴訟に持ち込まれました。

 こうした訴訟の結果、寛保元年(一七四一年)、屎船については天満橋から市中の青物市場まで積み替えや口銭の支払いなしに青物四品(菜・大根・瓜・茄子)に限って直接運んでもよいという裁決となりました。これは屎船にとってかなり有利な裁定です。屎船はこれに乗じて、必要以上の野菜類や縄・筵などの農業加工品までを市中へ運送、販売するようになっていきます。

 その後、屎船はますます船数を増し、組織化されて淀川本流から・市中まで横行するようになりました。特権を有する川船仲間はたびたび出訴しますが、奉行は有効な抑制策を打たないまま時間が過ぎてゆきます。

 このように淀川の川船は、慶長八年(一六〇三年)に家康が過書船に朱印状を与えてから以降、二百数十年にわたって紛争を繰り返してきました。しかしこれらの川船間の紛争も明治開化の蒸気船や市内を運航する巡航船の登場で幕を閉じます。そして貨客輸送は鉄道の時代へと変わってゆくのです。(平野)


(参考文献)
「舟運と河川技術 琵琶湖・淀川舟運~近世から現代~」(近畿地方整備局河川部刊)
「近世日本水運史の研究」(川名 登著 雄山閣出版刊)
「近世日本の川船研究(下)」(川名 登著 日本経済評論社刊)
「大阪の研究5 近世大坂の渡船業」(小林 茂著 清文堂出版刊)
「畿内河川交通史研究」(日野照正著 吉川弘文館刊)
「おおさか歴史散歩 船のある風景」(三浦行雄著 大阪春秋社刊)
「大阪と淀川夜話」大阪春秋叢書第一集(三浦行雄著 大阪春秋社刊)
「淀川百年史」(建設省近畿地方建設局編集発行)
「淀川ものがたり」(淀川ガイドブック編集委員会編著 廣済堂出版刊)
「淀川と物流―江戸時代―」(田中喜佐雄著)
「淀川・大和川の川船について」(川名 登 千葉経済論叢第29号 千葉経済大学刊)
「大阪地方の川船について」(川名 登 千葉経済論叢第30号 千葉経済大学刊)
「水の都と都市交通―大阪の20世紀 近代日本交通史」(三木理史著 成山堂書店刊)
「大阪府史 第五巻」(大阪府史編集専門委員会編 大阪府刊)
「大阪春秋第6号 淀川舟運交通史寸描」(宇田 正著 大阪春秋社刊)
「大阪春秋第50号 特集 淀川とその周辺」(大阪春秋社刊)
「近世の淀川治水」(村田路人著 山川出版社刊)
「大阪淀川探訪」(鈴木康久ほか編 人文書院刊)
「淀川往来」(上方史蹟散策の会編 向陽書房刊)

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