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八軒家タイムトラベル=明治四十四年(一九一一年)三月十二日

米人マースによる
華麗な飛行に
観客は万雷の拍手

 明治三十六年(一九〇三年)十二月、ライト兄弟による人類初のエンジン飛行が行われました。兄による第一回目は三秒半、約三十二メートル、ついで数日後弟が十二秒、約三十六メートルという記録でした。四回目には兄が五十九秒間に約二百六十メートルの飛行に成功しました。
 学識経験者でもない普通の市民(自転車屋の職人でした)によるこの快挙は大空を飛んでみたいという夢を描く人々を大いに駆り立てました。明治四十二年(一九〇九年)にはフランスのルイ・ブレリオが単葉機で英仏海峡横断に成功します。

図1)
↑ライト兄弟による初飛行。十二月十七日ノースカロライナ州キティホークにて、十二秒間・一二〇フィート飛行(アメリカ国会図書館)。

 日本での飛行機開発の先駆者といえるのは二宮忠八(一八六六‐一九三六)。陸軍歩兵連隊にいた頃、カラスの飛行からヒントを得て、それ以来飛行機の開発に没頭します。幼い頃の凧づくりの経験や竹トンボの原理などを応用して動力模型飛行機を完成。これを「カラス型飛行機」と名付け、明治二十四年(一八九一年)には三メートルの滑走の後九メートルの飛行に成功しています。その後は日清戦争への従軍で研究は途絶えましたが、除隊後に再開。いよいよ試作機が完成というとき、ライト兄弟の飛行成功のニュースを知ります。二宮はハンマーで自ら試作機を壊し、以降の飛行機開発を断念したそうです。

 日本最初の飛行は明治四十三年(一九一〇年)十二月十九日。フランスで操縦技術を身につけた徳川好敏陸軍工兵大尉が東京の代々木練兵場で行ったものです。搭乗した飛行機はフランス製ファルマン機。最高高度七十メートル、時速五十三キロ、飛行距離約三キロ、飛行時間四分。代々木練兵場を二周しました。こうして日本でも「大空を自由自在に飛んでみたい」という夢は大きく膨らんでいったのです。

図2)
↑日本最初の飛行。徳川大尉とアンリー・ファルマン複葉機(『世界の翼・別冊 航空70年史1』より)。

アメリカの飛行団が来日。
城東練兵場で飛行ショー開催

 そんな時期、米国飛行団ボールドウィン、J・C・マース、シュライバーの三飛行家とエンジン技師のアンモンスの四名は、マニラから飛行機二機とともに、明治四十四年(一九一一年)三月十一日、神戸港へ到着。夕刻から今回の飛行ショーの主催者である大阪朝日新聞社がひらいた堂島魚岩楼での歓迎会に招かれました。北新地の芸妓二十余名の居並ぶ料亭での華やかな席で舞踊を楽しみながら日本酒と料理に舌鼓を打ちました。十一日は北東からの寒風が強く、荒れ模様の天候で明日の飛行が心配されましたが、いざ十二日の朝となると、それがまるでうそのように晴れ上がり、風も凪ぎました。

 大飛行ショーの会場は、現在の森之宮検車場、中浜下水処理場あたりにあった十一万坪という広大な敷地を有する城東練兵場。東西六百メートル、南北八百二十メートルの敷地中央に南北に境界線を入れ、東方を飛行場、西方に観覧場が設けられました。練兵場の入口のある猫間川(昭和三十二年に埋め立てられ、現在はない)の橋の袂や会場の千百メートル以上にも及ぶ境界線には主催者である朝日新聞社の社旗が翻ります。
 飛行家マースが搭乗する飛行機はカーチス複葉機「スカイラーク号」。前日十一日の午後三時から組み立てが始められ夜半には終了、臨時格納庫に納められ出番を待つばかりです。

 では当日の大飛行ショーの模様を十三日付大阪朝日新聞をもとに再現してみましょう。

早朝から来場者が押し寄せ
その数はなんと八十万人にも!

 午後からの飛行にもかかわらず、午前七時には観衆が観覧場へと流れ込んでいきます。午前九時を過ぎる頃には南方の猫間川の堤防は黒山の人だかり。大阪城の号砲台が正午を告げる頃には入場者はすでに三十万人を越えました。
 その後も来場者は増えるばかり。入口を目指して猫間川から追手馬場までびっしりと身動きが取れない状態です。十二時半には入場者はついに五十万人を超えるまでに膨れ上がりました。

図3)
↑さしもに広き練兵場も立錐の余地なく(同紙・第九面)。

 大阪市民ばかりでなく、京都、神戸、奈良、和歌山などからも見物客が前日から押し寄せます。当日は早朝から官線各鉄道はもちろん阪神、南海、京阪、箕面有馬電気鉄道の各電車は、車輌を増やしたにもかかわらず満員となり、途中から乗ろうとして運転手台につかまる者もでる始末です。さらに市内電車の混雑ぶりは驚くばかり。増発も追いつきません。梅田、九条、難波各方面とも始発駅ですでに満員となり、四ツ橋から上本町まで電車が連なり、動くもままならぬ状態となりました。

図4)
↑城東練兵場での飛行ショーの模様(同紙・第二面)

 最終的に八十万を越えるという、あまりの人出に、南西方の堤防や北方の一部も観覧場に当てられましたが、その混雑ぶりは予想をはるかに上回るものでした。警備に当ったのは、数十名の憲兵のほか東署、玉造署、今福分署の四百名以上の警官。「押すな」「騒ぐな」と声を嗄らしての制止が続きます。
 観覧場の柵の外には人出を当て込んで、おでん屋やゆで玉子、バナナや蜜柑を売るものばかりでなく、急拵えののぞきからくりの見世物小屋までが並び、呼び込みの声を張り上げています。これはもうお祭り騒ぎです。

久邇宮殿下とマース飛行家の
歓談のあといよいよ大飛行が…

 飛行ショーは格好の写真のテーマ。浪華倶楽部、かめら倶楽部などの写真愛好家たちは制止の声も聞かず、群集をすり抜けては機体に近づいてシャッターを切ります。そんな中に吉澤活動写真隊もいました。彼らは出発と降下地点がよく見える位置に機材を据えて飛行ショーの一部始終を撮ろうとカメラを構えて準備万端。この大飛行の光景を早くも翌日の十三日から南地の蘆辺倶楽部で上映する計画でした。

 さあいよいよ飛行ショーの開幕が迫ってきました。西側の観覧場では第四師団軍楽隊五十名による華々しい演奏が会場に響きわたります。十二時少し前には本日の主役の飛行家マース、今回のメンバーのリーダーのボールドウィンが相前後して到着。澄みわたった大空の下、観客に手を振りながらマースが観覧会場の前を巡ります。
 皇族からは陸軍歩兵大佐・歩兵第三十八連隊長である久邇宮邦彦王が京都から京阪電車にて天満橋駅へ、そこから馬車で十二時二十分にご来着。マース自らが自分の搭乗する飛行機について久邇宮殿下に説明します。

図5)
↑マース飛行士(『世界の翼シリーズ写真集日本の航空史〈上〉』より)。

 午後一時十五分。飛行開始の号砲が鳴り響き、会場から歓呼の声があがります。シュライバーが格納庫から飛行機を西南にある発地点へ押して行き、前面舵を北東に据えました。飛行準備完了です。飛行服に着替え、飛行帽を被ったマースが登場し、機に乗り込みます。ボードウィンが機体の後ろのプロペラを勢いをつけて回し始めます。エンジンが凄まじい爆音を発しながらプロペラを回転させます。
 数人の人夫が後尾舵を押しながら走り出しました。そしてボールドウィンの号令一下、その手が離されると飛行機はそのまま速度を増し、三十メートルほど滑走し、まず後尾舵が上がり、次に前面水平舵が地上を離れ、機体が上昇して行きます。時に午後一時二十七分。日本における最初の本格的な飛行ショーが始まった瞬間でした。

スカイラーク号が大阪の町を周回。
屋根の上から市民が見上げます

 無事飛び立ったスカイラーク号は飛行場を直径五百メートルほどの楕円を描きながら一分数秒かけて一周し、発地点を高度百フィートで通過し、その後第二周、第三周と高度を上げながら周回を続けます。
 三周目には高度六百フィートに達しました。第四周目で降下し着地するかと思えば、今度は機体を上下させながら飛行場を一周、さらに上昇します。その自由自在な操縦ぶりに観衆は惜しみない拍手を送りました。こうして約十五分間の第一回飛行が終わります。

 第二回目は一時五十分。号砲を合図に今回もマース飛行士による飛行ショーです。この頃より北西の風が少し吹き始めました。機は北東に向かって滑走し、上昇。百フィートの高さを保ちながら大きな円を描いて会場を一周します。

 第二周目は速度を増しつつ北方へ向かい、上昇を続けます。高度は二千三百五十フィートになり、練兵場を北へ飛び越えてゆきます。飛行機はなおも北へ向かいます。平野川の堤を越えて市外へ飛び出しました。家々の屋根に上って飛行機を見上げる人が数多く見られます。出発地から十二キロの地点まで飛び、今度は西へ向かいます。
 その後練兵場の西北端へ戻り会場を越えて南下していきました。畑で農作業中の農民が茫然と機体を見上げています。しばらく飛んだのち北方へ戻りエンジン音を響かせながら観覧席の人々の頭上を越えて、練兵場を二周して第二回の飛行を終えました。十数分に及ぶ華麗な航空ショーでした。

 この第二回の飛行でショーは終了の予定でしたが、久邇宮殿下のお褒めに預かったマースは第三回目の飛行を行います。今回は上空でエンジンを止めた状態から降下して着陸するというもの。離陸後三百フィートの高さで一周したあと、高度を上げて練兵場の西北端へ向かいます。高度は二千フィート。ここから方向を東南に定め、約四十五度の角度で急降下し始めました。そして高度一千フィートまで降下したところでエンジンを停止。観客も固唾を飲んで見守ります。マースの操縦する機体は、まるで空に輪を描きながら鳶が悠々と舞い降りるかのように正確に降り立ち、格納庫の前へ滑走してきました。会場はやんやの喝采です。こうしてこの日の飛行ショーは幕を閉じました。

図6)
↑バド・マースの着陸(クリーブランド州立大学図書館)。※本文の着陸とは異なります。

 会場の観衆は八十万人にのぼりましたが、京阪神その他の地方から飛行ショーを見ようとやってきて会場に入れない人々や市民が数十万人にものぼりました。猫間川の会場入口から入場できなかった者は隣接する砲兵工廠の石垣や煙突に登ったりしています。練兵場周辺の樹木もまるで人が生ったような状態。なんとか少しでも飛行機の飛ぶところを見ようと家屋の屋根の上にのぼったり、それもだめならと我先に火の見櫓や煙突の上、橋の上へと向かいます。なかでも天王寺の塔には三百人もの観衆が押しかけました。
 早々と入場を諦めて、屋根の上に毛布を敷いてゆったりと見物する市民や農作業を休んで肥船にご馳走を積み込んで家族総出で川筋へ繰り出す農民も見られました。

あまりの人気に公開飛行ショーを
東京、京都、名古屋でも開催

 ボールドウィン一行はもともとマニラから帰米する予定のところを日本に立ち寄ったのですが、この飛行ショーの大盛況で「これは日本でもビジネスになる!」と思ったのでしょう。予定を変更して日本に留まります。そして興行師と契約して一週間後に兵庫県鳴尾の競馬場で有料公開飛行を行います。入場料は五円、三円、二円という高額なものでしたが、スタンドは観客で埋まり、立錐の余地のないほどでした。これに味をしめてその後も東京・目黒競馬場、京都、名古屋、再び東京と飛行ショーを催しました。

図7)
鳴尾競馬場でのスカイラーク号(『世界の翼・別冊 航空70年史1』より)。

 このあともアメリカから毎年のように数多くの飛行団が来日公演を行い、人気を集めましたが、一九二〇年を過ぎた頃からはもの珍しさも薄れ次第に飛行ショーは下火になっていきました。

 飛行ショーが報じられた十三日付の大阪朝日新聞の天声人語がちょっと面白いのでご紹介します。書き出しは「実地に見るとそんなに大したものでもないが、我が国では未だ出来ないのだからをかしいではないか」と悔しさとも負け惜しみともいえるような書き出し。そして一日も早く日本でも優秀な飛行家が育ってほしいと結んでいます。
 しかし天声人語子が歎くほど、日本が飛行機の開発や操縦に立ち遅れていたわけでもありません。

ユニークな発想力で注目された
浪花の飛行機野郎たち

 この大飛行ショーの喧騒の中、練兵場の西手にある小さな工場からプロペラの回転音が聞こえてきました。飛行ショーなど我関せずと、大阪の飛行研究家森田新造が自己の飛行機製作に熱中。パリから持ち帰ったグレゴアジップ式エンジンに点火して試運転を行っていたのです。そして翌月四月には自作単葉機の試験飛行に成功します。
 森田は大阪市唐物町の皮革商でしたが、商用で渡欧した際、ちょうどベルギーで開かれていた世界博覧会で展示されていた飛行機用の発動機に惚れ込み、これを有り金をはたいて購入。帰国後、飛行機に関する基礎知識はなにもないにもかかわらず飛行機の設計製作にとりかかったのです。それも城東練兵場の一隅に格納庫を設けて、助手も二人雇うといった凝りようでした。

図8)
↑森田新造が製作した単葉機。明治四十四年(一九一一)に城東練兵場で滑走試験を行った(『世界の翼シリーズ写真集日本の航空史〈上〉』より)。

 奈良原三次は十三日付けの朝日新聞紙上でマースの飛行技術に関して惜しみない賛辞を述べています。奈良原は、一九一一年に自ら組み立てた奈良原式二号機で日本で初めて国産機による飛行を成功させた飛行家。海軍横須賀工廠の海軍技師で男爵の嗣男でした。
 この奈良原の弟子が、大阪生まれで船場の佐渡島銅鉄商店で働いていた伊藤音次郎(一八九一-一九七一)です。十七才の時に道頓堀の朝日座でライト兄弟の活動写真を見て飛行機にあこがれ、十九才で上京して奈良原に無給で弟子入りし、技術を習得。その後日本で初めて稲毛から帝都東京への往復飛行に成功しました。
 当時の飛行家は裕福な商家・良家あるいは軍の上級士官というのが相場でしたが、伊藤は商店の丁稚奉公から大空への夢へ向けて辛酸を舐めながらその夢を実現していきました。戦前の民間軽飛行機の普及に貢献した祖と言っていいでしょう。

 このように当時、日本でも民間人による飛行機研究熱が高まっていたのです。浪花っ子も、旺盛な好奇心とユニークな発想力で民間商業航空業界の発展を大いに助けたのだといえます。
(平野)


(参考文献)
「世界の翼シリーズ 写真集 日本の航空史(上)」(朝日新聞社刊)
「世界の翼別冊 航空70年史1 ライト兄弟から零戦まで」(朝日新聞社刊)
「日本の航空100年 航空・宇宙の歩み」(財団法人 日本航空協会刊)
「日本民間航空史話」(財団法人 日本航空協会刊)
「航空の事典」(小川利彦ほか著 岩崎書店刊)
「パイオニア飛行機ものがたり」(根本 智著 オーム社刊)
「日本航空界の先駆者たち イカロスは翔んだ」(平木国夫著 国際情報社刊)
「空気の階段を登れ」(平木国夫著 朝日新聞社刊)
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