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八軒家タイムトラベル=昭和三十九年(一九六四年)五月二日

幻の難波宮発掘。
それは二つの
瓦から始まった


 難波の宮と呼ばれているものには三つあります。第一は大化の改新のあと孝徳天皇が飛鳥から難波に遷都した際に建てられた難波長柄豊碕宮(前期難波宮。六五二年に完成しました)。二つ目は六七九年天武天皇が築いた難波の羅城。前期難波宮を改築したものと思われます。これにより飛鳥と難波の複都制となります(六八六年に焼失)。そして最後は八世紀に聖武天皇が建てた難波宮。これが三つ目の難波宮です(後期難波宮)。この三つはそれぞれ同じ場所にあったものと思われます。

難波宮は現在の長柄にあった?
それとも上町台地の北端?

 難波長柄豊碕宮の所在地については、江戸時代から多くの異説がありました。大きく言って下町説と上町説の二説に分かれていますがどちらも決め手に欠けています。
 下町説は地名考証から出てきたもの。いまも天満の北にある旧東成郡豊崎村長柄(現中央区)にあったという説です。この説は江戸中期から見られます。現在も地名が残っていますから、普通はここだと考えるかもしれません。
 上町説は「大阪の平野部は古来湿潤であり、淀川の氾濫もたびたびあった。豊碕では宮を営むにはムリがある。地盤のしっかりした高台の上町台地にあったとするのが妥当だ」という主張です。しかし上町台地のどのあたりにあったかまでは分かりません。地名考証や地形の考察によるこれらの説はいずれも考古学的な裏づけがなかったのです。

難波宮は上町台地にある!
山根徳太郎、執念の発掘活動

 まだ考古学的な調査法とかが確立していなかった時代、昭和二十五年に日本のシュリーマンと呼ばれる山根徳太郎が難波宮発掘に挑戦します。以来十数年、苦難に苦難を重ねて調査を続け、ついに昭和三十六年、難波宮の大極殿を掘り当てます。そして三十九年五月二日、ようやく念願の国の史跡指定を受けることになったのです。

図1)
↑難波宮発掘地に立つ山根徳太郎博士(大阪文化財研究所)。

 ではここで難波宮発掘にいたる山根徳太郎の半生を振り返ってみましょう。まず山根徳太郎の出自について簡単に触れておきます。

 明治二十二年(一八八九)大阪の南堀江生れ。父親は米穀商を営んでいましたが事業は上手くいかず幼少期は貧しかったようです。しかしもともとは医師を家業としていましたから父親の学問への理解は深く、徳太郎を府立北野中学へ入学させます。徳太郎も新聞配達などをやりつつ学業に励み特待生となります。その後、東京高等師範学校の地理歴史科へ進み、この頃から歴史や考古学への関心が深まっていきました。
 卒業後は関西で教諭を勤めたあと、大正八年に大阪市に就職。天王寺公園に創設された市民博物館の歴史部を担当することになります。このとき徳太郎は奈良時代の古瓦二枚と出会います。

発掘活動を始めるきっかけは
二枚の軒瓦との出会いだった

 その瓦とは、いまNHK大阪放送局がある馬場町とその東側の法円坂一帯から出土した二枚の軒瓦です。発見者は置塩 章(おじお あきら)という陸軍技師。大正二年(一九一三)、砲兵工廠のすぐそばに被服廠(軍服工場)を建築する際に掘り出されたものでした。発見された瓦は重圏文と蓮華文の軒丸瓦。この蓮華文の瓦は専門家が一致して奈良時代のものだと認めているものでした。

図2)
↑大正二年発見の軒丸瓦(大阪市指定文化財)大阪歴史博物館難波宮展示室。左が重圏文、右が蓮華文。

 大阪市民博物館に勤務していた山根徳太郎は大正八年、大阪の遺跡などを調べているとき、この瓦のことを知ります。さっそく置塩技師のお宅を訪ねてこの二枚の瓦を見せてもらいます。もちろん奈良時代の瓦が出土したからといって、そこに難波宮があったとまでは言えませんが、徳太郎は大いに興味を覚えました。この瓦との出会いが、後に彼が難波宮発掘調査に打ち込む大きなきっかけとなります。

 大正十三年、徳太郎にはすでに妻子がいましたが(大正六年結婚)、史学への研究心はいよいよ高まり、当時勤めていた第一神戸中学を退職し、京都帝国大学の国史学科へ入学します。
 昭和二年(一九二七)、三十八歳で京大を卒業した徳太郎は翌年新設の大阪市立商科大学予科の教授となり、念願の史学研究と教育の道を歩み始めました。その後は平穏な研究生活が続きますが、昭和十六年に太平洋戦争が勃発。徳太郎一家も長男が戦死するなど戦争に翻弄されます。
 戦後になって徳太郎は大阪市立大学(商科大学を改組)の教授となって研究を再開。昭和二十五年には古代難波宮の調査を含む「大阪城址の研究」を計画し、文部省に申請します。この申請は徳太郎が大阪市大を定年で退職した昭和二十七年にようやく承認され研究費が支給されることになりました。さあいよいよ待望の難波宮の発掘がスタートです。

まず狙いは法円坂一帯。しかし
戦後の建築ラッシュが始まった

 しかし難波宮の発掘といっても手掛かりは三十年以上前に見た古瓦二枚だけ。文献からは上町台地の北端あたりと推定はできるもののそれを否定する説もあり、規模や構造なども不明です。
 まず手をつけたのは、古瓦の出土した陸軍の被服廠の跡地の調査。敗戦で軍隊がなくなってこれまで立ち入り禁止だった軍用地にも自由に出入できます。さいわい今回の戦争でも一帯は奇跡的に爆撃を受けずに済んでいます。

 ただ、当時法円坂町一帯は旧陸軍の用地が大阪府や大阪市や日本赤十字社などに払い下げられ、府営や市営住宅、警察関係の建物の建築が始まろうとしていました。ビルが建ってしまえば発掘することはできません。調査に一刻の猶予もない状況です。
 徳太郎は追い立てられるように、掘り返された建築現場を急いで見てまわります。そして現場から出てくる瓦の破片などを熱心に探すことが日課のようになりました。毎日のようにやってくるこの一風変った学者とその研究内容に興味を持つ工事の現場監督も現れ、協力してくれるようになっていきました。

 昭和二十八年十一月三日、工事現場から大きな鴟尾の破片が見つかります。鴟尾とは瓦屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種。宮殿などのかなり格の高い建物でないと用いられないものです。このあたりに難波宮があったという有力な根拠にもなる出土品でした。

図3)
↑難波宮跡出土鴟尾(大阪市指定文化財)大阪歴史博物館難波宮展示室。

 これに勇気を得て、翌年二月二十日、いよいよ第一次発掘が開始されます。まず発掘するのは法円坂東にある東警察署の寮と市警の機動部隊寮の建築現場。二十五日間にわたって発掘活動が行われましたが、古墳時代の土器のかけらなどが出てきたほかはあまり大きな成果は上がりませんでした。予算も底を尽きます。
 この年の八月三日、前述の鴟尾が出土したあたりで市営住宅の建築工事が始まると聞いて徳太郎はあわてて工事現場へ駆けつけます。早速研究員たちに連絡を入れて翌日から第二次発掘にかかります。九日には基礎工事現場から重圏文や重弧文の瓦が折り重なって出てきました。発掘は九月十一日まで。出土した瓦はトラック三台分もありました。
 しかしそののち数年間はあちこち試掘しても奈良時代の古瓦は出てくるものの、建物があったことを示す柱の跡を見つけることができません。

 難波宮のあと十五世紀には石山本願寺、その後大阪城、さらに明治以降は陸軍の各種施設が建造されていますから、遺跡はかなり壊されているはずです。難波宮の建物の痕跡を探すのは至難のわざといっていいでしょう。

学界からも逆風が吹いてくる。
そんな中で苦難の発掘が続く

 発掘現場からは奈良時代の蓮華文の瓦も出てきましたが、重圏文や重弧文の瓦が多く見られました。これら重圏文や重弧文の瓦は、時代を下った長岡京からよく出ていたものなので「いま発掘しているのは奈良時代末期か平安初期の寺院かなにかじゃないか」などという学者もいました。こうした意見が発掘活動への逆風になり、徳太郎を苦しい立場に追い込んでいきました(現在では長岡京は難波宮から柱や瓦を運んで造営されたと考えられています。瓦はむしろ難波宮が本元だということになります)。
 また昭和三十年頃の建築の専門家のあいだでは、宮殿の中心となる建物は礎石の上に柱を立てて瓦を葺くというのが定説となっていました。ところが七世紀の難波宮の建物はあとで判明したことですが、実は掘立柱という方式だったのです。掘立式とは礎石の上に柱を立てるのではなく、柱穴を掘ってそこへ柱を埋め込んで固める方式です。
 発掘調査ではまだそのことが分からないまま礎石や礎石の下に置く根石を探していましたから、柱跡がなかなか見つからないのも当然でした。

 発掘のための費用も大変でした。国から支給される科学研究費は何年も続けては貰えません。四年ほどで打ち切りになってしまいました。資金難で何度も発掘は頓挫しそうになります。
 そんな窮地を救ったのが、大学時代からの学友や古代史や建築史の学者からの協力であり、昔の教え子の援助、そして徳太郎の熱意でした。

 その後、難波宮は掘立式の柱で建てられたのではないかという考えが浮んだことで発掘は大きく進展します。昭和三十二~三年には等間隔で並んだ柱穴が出土。柱穴掘立柱の回廊が東西に伸びていたことが分かりました。回廊の位置が定まるとその中軸線上に重要な建物があるはずです。
 三十四年八月から行われた第十次発掘では、それぞれに異なった三種類の柱穴が見つかります。孝徳天皇の長柄豊碕宮(前期難波宮)、天武天皇の時代に作られた宮殿、そして聖武天皇が建てた後期難波宮の三種の柱穴だと思われます。三つの難波宮は同じところに建てられていたのです。

図4)
↑難波宮周辺の地形(寺井誠2007に加筆)。

ついに後期難波宮の大極殿発見!
しかしまたも建築計画の壁が…

 こうして昭和三十六年二月、回廊の南の方でまず後期難波宮の大極殿が掘り出されました。この遺跡が奈良時代の難波宮に間違いないことが確認されたわけです。発掘が始まって七年目のことです。
 資金面でも昭和三十五年に難波宮址顕彰会が大阪市教育委員会の中に設立され、予算的な措置も講ぜられました。
 しかし難波宮発掘の苦難の道はまだまだ続きます。昭和三十七年には難波宮の大極殿の跡のちょうど真上に合同庁舎の建築計画があることが分かります。

図5)
↑後期難波宮大極殿跡の発掘調査(大阪歴史博物館・展示の見所7『後期難波宮大極殿』より)。

 徳太郎はこの計画を阻止すべく獅子奮迅の活動を開始します。大阪市立大、阪大、大阪府立大、関西大、京大など関西七大学の学長を説いてまわって合同庁舎建築反対に賛意を得ます。そして文化財保護運動では初めての連合声明を出したのです。
 当時は戦後の復興期であり、文化財保護よりまずは生活優先だという考えが強く、文化財保護の重要性を理解してもらうのはなかなか難しい時代でした。

 しかし徳太郎の奮闘が功を奏し、新聞などマスコミの援護もあって、ようやく建設を担当していた大阪財務局も計画を見直すことになりました。大阪市の尽力もあって代替地に建設されることが決ったのです。とにかく大極殿の一画の保存は確実になりました。それは、なんといっても大極殿の位置がはっきりし、さらに発掘した難波宮のその下層に前期難波宮跡が重なって存在することが分かったからだといえます。
 この下層の遺跡は掘立柱が広い範囲にわたって火災のあとがあり、孝徳天皇の時代に建てられ、天武朝の六八六年に焼失した前期難波宮に間違いありません。こうした発掘の成果が背景にあったからこそ、合同庁舎などの建築計画の見直しなどが実現されたのです。

図6)
↑難波宮復元略図(「難波宮跡発掘調査現地説明会資料」を基に作成)。

 こうして昭和三十九年五月二日、後期難波宮の大極殿・大安殿周辺一万七千五百平方メートルが国の史跡指定を受けることになりました。

山根徳太郎84才で永眠。
その翌朝にビッグニュース!

 その後も、法円坂町一帯では昭和四十年に日本赤十字の整肢学園、四十三年には大阪市教育青少年センターなどの建築計画なども持ち上がります。徳太郎はそうした中で調査研究を続けつつ、史蹟の保存運動に精力的に取り組みます。直木孝次郎大阪市大助教授(当時)を中心に発足した「難波宮址を守る会」を中心に署名活動や国会請願など広範な難波宮跡保存運動が展開されます。

 徳太郎は老体に鞭打って難波宮跡の研究調査と保存に尽力しますが、昭和四十七年(一九七三)七月二十八日に逝去(享年八十四歳)します。その翌日、保存運動に関わってきたメンバーを驚かせるニュースが各紙朝刊の一面に報じられました。「難波宮跡を全面保存、文化庁・大阪市が五十億円の地方債発行」というものです。奇しくもそれは山根徳太郎の告別式の朝のことでした。

 現在、難波宮跡は追加指定を経て中心部の約十万二千六百平方メートルが国の史跡に指定され「難波宮史跡公園」として後期大極殿基壇の復元や前後期の遺構表示など環境整備が行われています。

図7)
↑大阪歴史博物館展示室からみた難波宮史跡公園(二〇一三年四月十五日撮影)。

 平成十三年には難波宮跡の一画に大阪歴史博物館がオープン。十階の難波宮展示室からは難波宮跡公園が一望できます。山根徳太郎の業績を顕彰するコーナーには博士の胸像があり、窓の眼下に広がる難波宮跡公園を眺めています。
(平野)

(参考資料)
「難波の宮」(山根徳太郎著 学生社刊)
「難波王朝」(山根徳太郎著 学生社刊)
「難波宮の歴史と保存」(直木孝次郎著 吉川弘文館刊)
「難波宮と難波津の研究」(吉川弘文館刊)
「まぼろしの難波宮 山根徳太郎物語」(浜田けい子 講談社刊)
「新修大阪市史 第一巻」(新修大阪市史編纂委員会編 大阪市刊)

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